龍野城(たつの) | |
別称 : 鶏籠山城、霞城、朝霞城、台山城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 宇野政秀か | |
遺構 : 曲輪、石垣、土塁、堀、石段 | |
交通 : JR姫新線本竜野駅徒歩20分 | |
<沿革> 明応八年(1499)、赤松村秀によって鶏籠山に城が築かれたのがはじまりとされる。ただし、 村秀は同二年(1493)生まれとされているため、自身の意思で築城したとは考えにくい。村秀 の出自には2説あり、1つは赤松家を再興させた赤松政則の晩年の庶子で、一族の宇野政秀 の養子となったというもの、もう1つは政秀の実の曾孫であるというものである。いずれの説に おいても、政秀が村秀のために城を築いたとする解釈は成り立つが、詳細は不明である。 政秀の居城は塩屋城であり、文亀二年(1502)に政秀が没すると、村秀が家督と塩屋城主 を継いだとされる。それ以前の村秀の居所が鶏籠山城であったかは詳らかでない。村秀は、 自らの祖父で政秀の子の那波城主則貞と折り合いが悪かったとされ、『鵤荘引付』・『鏤氷集』 などによると、「弘山 立岡山カワラ」で両者は合戦におよび、則貞は大永五年(1525)に、龍野 城内で村秀によって殺害されたとされる。このときまでに、村秀は居城を龍野に移していたもの と推測される。 天文九年(1540)、村秀が死去し、その子政秀が跡を継いだ。政秀は、本家赤松晴政の娘を 娶り、斜陽の赤松宗家を支えた。しかし、元禄元年(1558)八月八日、「騒劇(『書写山十地坊 過去帳』)」によって、晴政は嫡子義祐に置塩城を逐われた。政秀は晴政を龍野城に庇護し、 以後晴政の復帰を目指して義祐と争った。同八年(1565)に、晴政が復権を果たせないまま 世を去ると、政秀は義祐と和睦し、晴政の葬儀は置塩で執り行われた。 その後、政秀は義祐に従属したわけではなく、ほとんど独立大名化していたが、永禄十一年 (1568)に織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、信長・義昭への対応を巡って政秀と義祐 の対立が顕在化した。背景には、同じく赤松家臣でありながら独立大名化していた浦上宗景 の勢力伸長もあった。政秀は、先手を打つため、同十二年(1569)に義祐家臣小寺氏の重臣 黒田官兵衛孝高の姫山城(後の姫路城)を攻略すべく兵を起こしたが、孝高の奇襲に敗れ、 龍野へ撤退した(青山・土器山の戦い)。これを好機とみた宗景が龍野へ軍を向けると、政秀 は抗しきれず降伏した。翌元亀元年(1570)、政秀は何者かに毒殺された。 跡を政秀の嫡男広貞が継いだ。天正五年(1577)に羽柴秀吉が播磨へ侵攻すると、龍野城 の赤松氏は一旦抵抗するが、敗れて降伏した。このときの当主は「弥三郎広英」とされ、広貞 はすでに早世していたと考えられている。広貞と広英は兄弟と推測されているが、『日本城郭 大系』では、2人が同一人物である可能性を示唆している。広英は、佐江村に退去・謹慎した とも、鏡島城主石川光信の孫光元が龍野城主に任じられたともいわれる。広英は後に「斎村 政広」を名乗ったが、斎村姓はこのときないし政秀暗殺後に隠れ住んだ佐江村に由来すると いわれる。 天正九年(1581)、龍野城は秀吉家臣蜂須賀正勝に与えられた。この間の龍野城の動向は 先述の通り詳らかでないが、同六年(1578)に摂津の荒木村重に同調して播磨国内の小寺 政職や別所長治らが反乱を起こし、同八年(1580)にようやく鎮圧されている。龍野城の空白 期間とほとんど重なっており、広英が何らかの独自アクションを起こしていた可能性も考えられ るものと思われる。 天正十三年(1585)、正勝は阿波へ転封となり、龍野城には福島正則が入った。このとき、 正勝は龍野の特産であった藍を阿波へ移したため、当地の藍産業は廃れてしまったとされる (「播磨倒し」)。同十五年(1587)には木下勝俊(長嘯子)が龍野城主となった。勝俊のころ までに龍野城は近世城郭化され、鶏籠山の山城機能は顧みられなくなっていったものと考え られている。文禄三年(1594)には小出吉政が入ったが、翌年には有子山城へ移り、龍野は 太閤蔵入地となり、城番には再び石川光元が任じられたとされる。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い後、龍野は姫路藩池田家領となり、重臣荒尾成房が城代 となった。元和三年(1617)、池田光政が鳥取へ転封となると、本多政朝が5万石で龍野藩を 立藩した。鶏籠山の山城部が完全に廃されたのは政朝のときともいわれるが、定かでない。 寛永四年(1627)、政朝は姫路藩の本家を継ぎ、代わって小笠原長次が入封した。同九年 (1632)、長次は豊前中津へ加増転封となり、その後、天領となった時期を挟んで、断続的に 岡部宣勝と京極高和が短期的に龍野藩主となった。 万治元年(1658)に高和が丸亀藩主となると、龍野藩は再び廃藩となり、城も破却された。 しかし、寛文十二年(1672)に脇坂安政が5万3千石で龍野藩を再興し、龍野城も再建された。 安政は老中堀田正盛の次男であったことから、後に脇坂家は譜代大名に格上げされた。脇坂 家は、その後10代を数えて明治維新を迎えた。 <手記> 龍野城は、鶏籠山の山城部と山麓の近世藩府部の2つに分けられ、両者を別項として扱って いる資料やサイトも多くみられます。しかし、山麓の近世龍野城は中世の居館部にあたるとされ ており、時代による機能のスライドはあれども、ここでは一貫した「龍野城」として扱います。 鶏籠山は、その名の通り鳥かごをひっくり返したような特徴的なフォルムの山で、的場山から 揖保川に向かってイボのように突き出た半独立峰です。龍野の城下町は、鶏籠山と的場山系、 そして揖保川に囲まれた小盆地となっています。山麓の近世龍野城は、埋門を中心に左右2つ の区画に分かれていますが、現在東側は歴史文化資料館になっています。西側には本丸御殿 の一部が復元されていますが、内部はとても復元とはいえない感じで、ほとんど公民館です。 ほかにも隅櫓や塀、埋門が復興されていますが、隅櫓については模擬だそうです。近世龍野城 の実際の遺構といえるのは、本丸石垣の一重部分のみで、その外側はすでにほぼ改変されて しまっています。 鶏籠山へは、本丸御殿北西から鹿除けのゲートをくぐって登ります。登りはじめてすぐに、右手 に中世龍野城の根小屋跡と思われる削平地群がみられます。その後は、しばらく九十九折れの 山道を登って主城域にたどり着きます。途中、資料館でいただいた縄張り図には石積みがある と書いてあったのですが、崩れてしまったのか見落としてしまったのか、見つかりませんでした。 ほかにも、縄張り図に記入されている水の手や横堀が探しても見当たらず、主城域への道も図 と合わないので、なんらかの山の改変があったように思われます。 山上の龍野古城は、本丸域と二の丸域に分けられ、このルートで登ると、まず二の丸域に辿り つきます。二の丸域は、ピークにある二の丸から階段状に曲輪群が5〜6段ほどならんでいます。 登城路は曲輪群の端を直進しており、大きな工夫はみられません。ただ、曲輪群から登城路を 挟んだ南側には、長い横堀(縄張り図にあったものとは別)があります。この横堀は明確な遺構 で、貴重なものと思われます。 二の丸域に対して、本丸域は喰い違い虎口が連続し、圧倒的に堅固なつくりとなっています。 また、本丸域には、二の丸域には見られない石垣が散見されます。とはいっても部分的である ので、山麓の近世龍野城などの建設の際に、石材が持ち運ばれた可能性もあります。だとする ならば、二の丸域に石垣がなかったとするのも早計かと思われます。 本丸域で特筆すべきは、本丸の一段下にある城山八幡宮跡の曲輪でしょう。城内に守護神を 祀る曲輪が設けられることは珍しくありませんが、この八幡曲輪には、石畳や石段、外縁の基壇 石積みが残っています。肝心の八幡宮は失われているものの、珍しい遺構であると思います。 とくに、石畳や石段のつくりには余裕が感じられ、秀吉の時代くらいまでは山城部分も使用され ていたことを示唆しているように思われます。 本丸の背後には岩盤を削った堀切が1条ありますが、その先は的場山との峠にいたるまで、 それといった防御施設は見当たりません。両見坂と呼ばれる的場山との峠から南の谷筋へ下る と、途中に「鳥ヶ撓(とりがたわ)番所」と侍屋敷の跡というのがあります。どのような性格の番所 であったかは定かでありませんが、おそらく鶏籠山城の搦手を押さえる施設であったものと推測 されます。 この先は、紅葉谷と呼ばれる爽やかな小渓谷となっていて、道を下りきると城下町に戻ります。 龍野城下町は、古い街並みで知られており、江戸時代の武家屋敷から近代の薄口醤油の工場 まで、幅広い歴史的景観が保存されています。サスペンスや旅番組でもしばしば取り上げられて おり、城跡だけでなく町全体で楽しめるところだと思います。注意すべきは、最寄駅はローカル線 である姫新線の本竜野駅で、山陽本線の竜野駅で降りてしまうとあまりに遠く、バスもほとんど 走っていないので、タクシーを使わざるを得なくなってしまうことです。 |
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鶏籠山を望む。 | |
近世龍野城復興埋門。 | |
模擬隅櫓。 | |
復興本丸御殿。 | |
根小屋と思われる山麓曲輪群。 | |
同上。 | |
二の丸下の竪堀。 登城路から少し山を分け入らないとみられません。 |
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二の丸域曲輪群。 | |
同上。 | |
同上。 | |
二の丸南側の横堀。 | |
二の丸のようす。 | |
本丸域の石垣跡。 | |
同上。 | |
同上。 | |
八幡曲輪下の石段。 | |
八幡曲輪の石畳。 | |
八幡曲輪外縁の石積み。 | |
本丸北側虎口跡。 | |
本丸南側虎口跡。 | |
本丸南曲輪群の喰い違い虎口跡。 | |
同上。 | |
本丸のようす。 | |
本丸背後の堀切。 | |
鶏籠山南西麓の大竪堀。 | |
鳥ヶ撓番所跡。 | |
番所跡下の石垣。 当時のものかはなんともいえません。 |