出石城(いずし)
 別称  : 有子山城、有子城、石城、高城
 分類  : 山城
 築城者: 山名祐豊
 遺構  : 石垣、土塁、堀、土橋
 交通  : JR山陰本線豊岡駅ないし江原駅よりバス
       「出石」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           天正二年(1574)、但馬守護山名祐豊・氏政(後の堯熙)父子によって築かれたとされる。
          山名父子は、永禄十三年(1569)に織田信長の家臣木下秀吉によって居城此隅山城を攻め
          落とされ、堺へ落ち延びた。そこで、今井宗久の仲介によって信長への臣従を条件に、但馬
          への復帰を果たした。有子山城の築城と移転は、織田氏と毛利氏の間という難しい立ち位置
          にあるなかで、より堅固な城を欲したことの表れと考えられている。有子山(こありやま/あり
          こやま)の名は、『橋本宗三実記』によれば、子宝に恵まれなかった氏政がそれまでの居城
          此隅(こぬすみ/このすみ)城の読みを「子盗」に通じるとして忌んだために付けられたものと
          される。
           天正三年(1575)、山名四天王と呼ばれた山名氏重臣の1人太田垣輝延が単独で毛利家
          の吉川元春と和議を結んだ。山名氏はこれを単独で鎮めることができず、信長は明智光秀を
          派遣した。この一件で、山名家中における親織田派と親毛利派の分裂が明らかとなり、信長
          の不信を買ったとされる。同八年(1580)には、信長の命を受けたとされる秀吉が再び但馬へ
          侵攻した。直接城攻めの兵を率いたのは、秀吉の弟秀長とその配下の藤堂高虎であった。
          山名父子は籠城して抵抗したものの、五月に落城した。祐豊は籠城中ないし開城後まもなく
          病死し、氏政は隣国(因幡ないし丹後)へ逃れた。秀吉は秀長を有子山城主に任じ、秀長は
          有子山山麓に居館を整備した。これが、陣屋造りである出石城のはじまりともいわれる。
           天正十一年(1583)、秀吉は秀長を姫路城主とし、出石には秀長の城代が派遣されたもの
          とみられている。一説には秀吉・秀長兄弟の義理の叔父にあたる青木勘兵衛重矩(一董)が
          城代を務めていたともいわれる。同十三年(1585)には、前野長康が5万石で出石城主に封じ
          られた。
           文禄四年(1595)、豊臣秀次の付家老であった長康は、秀次事件に連座して切腹を命じられ
          た。同年、龍野城主小出吉政が有子山城主に転じた。慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、
          吉政は西軍に属したが、東軍に属した弟秀家の活躍により、戦後所領を安堵された。同九年
          (1604)、吉政の父で岸和田城主の秀政が死去すると、吉政はその遺領を継いで岸和田へ
          移り、有子山城は吉政の嫡男吉英が受け継いだ。吉英は同年中に不便な山城部を廃し、麓に
          陣屋造りの城を整備した。これ以降、正式に陣屋部を指して出石城と呼ばれるようになった。
           慶長十八年(1613)に吉政が死去すると、吉英は岸和田藩を継ぎ、吉英の弟吉親が出石藩
          を継いだ。しかし、元和五年(1619)に吉英が5万石で出石へ再封となり、吉親は3万石で園部
          へ移封となった。
           元禄九年(1696)、9代藩主英及が数え3歳で夭折し、出石藩小出家は無嗣断絶となった。
          藩取り潰しに際して出石領内は荒れ、丹波亀山藩主久世重之が鎮定にあたり、そのまま出石
          城在番となった。翌十年(1697)に重之は吉田へ転封となり、藤井松平忠徳(忠周)が5万石
          で岩槻から出石へ移った。宝永三年(1706)に忠徳は信州上田へ加増転封となり、代わって
          仙石政明が上田から出石へ移封となった。以後、仙石氏が8代を数えて明治維新を迎えた。
          なお、7代藩主久利のとき、江戸大名のお家騒動の代表格に数えられる仙石騒動が発生し、
          仙石家は3万石に懲罰減封された。


       <手記>
           出石城は、上述の通り山城部と陣屋部に分かれており、山城部については有子山城として
          別個に扱われることもあります。「有子山」の読みは、一昔前の資料では総じて「こありやま」
          となっていますが、近年では「ありこやま」と読まれることが多いようです。
           陣屋部は、山の裾を4段に削平して曲輪としていますが、サイドから本丸まで直登できるなど、
          防御性についてはほとんど顧みられておらず、完全な御殿建築となっています。本丸は上から
          2段目にあたり、最上段は稲荷曲輪と呼ばれています。本丸には、東西2基の隅櫓が推定復元
          されています。城の眼前を谷山川が横切っていますが、これは後世に開削されたもののようで、
          かつては4段の削平地の外側に、コの字型の外堀に囲まれた三の丸がありました。すなわち、
          現在の辰鼓楼前を流れる幅広の水路が三の丸堀で、辰鼓楼の載っている石垣は大手門跡の
          ものです。辰鼓楼も城の遺構であるようにいわれることもありますが、実際には明治時代に建て
          られたものです。
           現在豊岡市役所出石支所(旧出石町役場)のあるあたりが藩庁の御対面所跡とされ、堀際
          には土塁が残っています。貴重な現存遺構だと思うのですが、今ではあまり気にもとめられて
          いないようです。
           有子山へは、赤鳥居が並ぶ稲荷神社参道の突き当りから登山道がのびています。ただでさえ
          高い山であるうえに、わざわざ急峻な尾根筋を直登するルートであるため、かなりしんどい道のり
          です。最初にお目にかかる遺構は竪堀です。これは、「本丸まで720メートル」と書かれた標柱の
          真裏にあります。さらに上ると、堀切と土橋があります。これらの遺構は中世的なものであるため、
          おそらく山名氏時代から続くもっとも初期のものであると思われます。
           息を切らしながらひたすら直登すると、2〜3段の連続削平地があります。ここからはしばらく横
          スライドの道になるため、一息つくことができます。途中、井戸曲輪と呼ばれる数段の土留め石垣
          があります。おそらく、現在は道となっている石垣群上段の平坦部に、沢水を集めた井戸施設が
          あったものと推測されます。
           このスライド道は、上の地図にもある通り、西端の尾根まで続き、そこからまた直登となります。
          とはいっても、今度はまもなく頭上に石垣が現れ、ようやく本城域に到達となります。あいにくこの
          日は台風上陸前日で、雨は降っていなかったものの山頂は完全に霧の中で、城の全体像を視界
          に収めることはできませんでした。それでも、次から次へと霧の中から現れる石垣群には、十分
          興奮させられました。
           有子山城の石垣は、明らかに山麓の陣屋部のそれとは異なり、野面積みの前時代的で素朴な
          ものです。少なくとも、小出吉英よりは古い人物によって築かれたものであることが分かります。
          他方で、城下からは見えない本丸の南辺は石垣でなく土塁になっていることから、石垣が築かれ
          た頃には、すでに実用面よりも景観面が重視されていたことがうかがえます。したがって、有子山
          城に石垣が整備されたのは、おそらく豊臣(羽柴)秀長時代ごろであろうと考えられます。
           もう1つ有子山城で注目すべき遺構は、本丸から巨大な堀切を挟んで東側に位置する「千畳敷」
          と呼ばれる曲輪です。この曲輪は、本丸の3倍はあろうかという広大で平坦な空間で、その名から
          して御殿建築があったことは想像に難くありません。城主の居館があったとまではいえませんが、
          小出吉政の代までは、ここに大きな御殿が営まれていたのでしょう。
           よほど城好きでなければ、出石城は陣屋部も山城部もそれほど感動するものではないでしょう。
          ですが、出石はそうした一般の観光客の不満(?)を補って余りあるほど情緒豊かな街並みを残して
          います。ひとつ私の不満を挙げるならば、この出石の町の基礎を築いた小出公よりも、お家騒動に
          圧政にゴマスリ上手の家祖で知られる仙石家を崇拝していることでしょうか。
           
 三の丸跡から出石城本丸(右下)と有子山を望む。
 山頂は霧の中…。
二の丸石垣と本丸西隅櫓。 
 西隅櫓近望。
東隅櫓。 
 稲荷曲輪の石垣。
有子山城の竪堀。 
 堀切と土橋。
同じく竪堀。 
 削平地。
井戸曲輪の石垣群。 
 西端尾根の削平地。
本城域西端付近の石垣。 
 西ノ丸(現地説明板では第五曲輪)の石垣。
本丸へ続く虎口の石垣。 
 本丸石垣。
本丸のようす。 
 本丸南辺の土塁。
本丸と千畳敷の間の堀切。 
 千畳敷のようす。
千畳敷の虎口跡か。 
 西ノ丸付近の長石垣。
市役所出石支所脇の三の丸土塁。 
 三の丸堀と大手門跡石垣に建つ辰鼓楼。
三の丸西門跡石垣。 


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