宮地城(みやじ)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 三木正頼
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : 下呂温泉街から車で10分


       <沿革>
           応永十八年(1411)、幕府の命で飛騨の乱を鎮圧した飛騨守護・京極高光の弟・高数(高員)は、
          褒賞として与えられた所領のうち、益田郡竹原郷に三木正頼を送り込んだ。三木氏は、京極氏と
          同じ佐々木源氏流の多賀氏の庶流とも、藤原秀郷流ともいわれ、近江国甲賀郡の三ツ木城(現・
          甲賀市水口町新城)を発祥とするとされるが、詳しい来歴は明らかでない。
           正頼の子・久頼は、京極本家の手の及ばない飛騨で頭角を現し、益田郡全体を掌握するまでに
          成長した。しかし、応仁の乱を機に京極家内が分裂して争うと(京極騒乱)、飛騨国内でも対立が
          生じ、久頼は文明三年(1471)の戦いで討ち死にした。跡を継いだ子の重頼も、美濃の斎藤妙椿
          と結んで勢力を拡大し、永正元年(1504)には木曽谷へ侵攻し、木曽義元を敗死させるなど優秀な
          人物であったようだ。
           重頼の子・直頼の代になると、三木氏は飛騨南部を完全に支配下に収め、その目は飛騨中部へ
          向けられた。直頼は北の桜洞城へ居城を移し、戦国大名への大きな一歩を踏み出した。宮地城の
          その後については定かでない。


       <手記>
           宮地は飛騨国のほぼ端っこにあたり、南東の舞台峠を越えると美濃国です。宮地城は宮地神社
          から細尾根をダラダラと登った先の、比高130mほどの峰上に築かれています。車は神社南西麓の
          竹原公民館に駐車可能で、境内からいったん背後の鞍部へ下りると、そこから城内まで登山道が
          しっかり付いています。私が訪れた日は雨が降ったり止んだりでしたが、傘を差しながらでも難なく
          登城できました。
           主郭の前後に1条ずつ、そして城域最前部にももう1条の堀切が穿たれ、前方尾根には2〜3段の
          腰曲輪が付属しています。主郭前方部には御嶽神社が祀られ、井戸跡らしき石組みもありました。
          主郭は縦に長く、前後2段に分かれているようにも見えますが、後方部は笹薮に覆われていてよく
          分かりません。
           規模は小さめでコンパクトながら、造作はしっかりしており、個人的な印象では国境の支城として、
          三木氏(姉小路氏)の滅亡まで維持されたのではないかと思います。当時、舞台峠を越えた街道は
          野尻で北上し、宮地城付近ないし現在の下呂CC付近の尾根を渡っていたのではないでしょうか。
          そして宮地から乗政川沿いにまた少し北上して、初矢峠を越えて下呂に向かったとすると、宮地城
          の意義も見えてくるような気がします。
           それにしても飛騨の南の端っこから北上し、ついには一国を制圧するまでに成長するというのは、
          戦国大名のなかでもかなり成功した事例ではないでしょうか。記録通りであれば、三木氏は6代も
          連続して優秀な当主を輩出していることになり、もっと注目されてもよいのになぁ感じます。そんな
          三木氏のはじまりの場所として、訪れて感慨深い城跡でした。

           
 西から宮地城跡を望む。右手のピークが城域。
 左手のピークは宮地神社。
起点となる宮地神社。 
 登城途中のようす。
最前方の堀切外から城域を見上げる。 
 最前方の堀切。
主郭前方の腰曲輪群。 
 堀切越しに主郭前方部を見上げる。
主郭前方下の堀切。 
 主郭から堀切越しに前方を俯瞰。
主郭のようす。奥に御嶽神社が見えます。 
 主郭の城址標柱。
井戸跡か。 
 主郭後方部のようす。
主郭後方部から前方部を望む。 
 主郭背後の堀切。
宮地神社境内付近から乗政谷を望む。 


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