比叡尾山城(ひえびやま) | |
別称 : 畠敷本城、比海老城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 宍戸朝家か | |
遺構 : 曲輪、石塁、土塁、堀、虎口 | |
交通 : JR芸備線三次駅からバスに乗り、 「卸売センタ−前」下車徒歩40分 |
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<沿革> 備後国人・三吉氏累代の居城である。三吉氏は藤原鎌足の子孫と称する藤原兼範が、承久三年 (1221)の承久の乱の後に三吉(三次)の地頭職を得て下向したことにはじまるとされる。兼範の子・ 兼定は三吉大夫を名乗り、このころには比叡尾山城も築かれていたといわれるが、確証はない。 また『日本城郭大系』によれば、兼範以前に源頼朝から地頭に補任された佐々木秀綱が三吉氏を 称し、比叡尾山城を築いたとある。この説によれば秀綱の子・秀方は承久の乱で宮方について滅び、 藤原系三吉氏はその後釜に入ったことになる。 戦国時代になると、尼子氏と大内氏の勢力圏の境に位置する三吉氏は、両氏の間を渡り歩きつつ 勢力を維持した。天文十一年(1542)の第一次月山富田城の戦いで三吉致高は大内義隆に属し、 同十三年(1544)には尼子晴久が比叡尾山城へ兵を進めた。致高は毛利元就の援軍を得て、布野 で尼子勢と戦ったが敗北(布野崩れ)。しかし翌日に5百の兵で尼子陣を急襲すると、油断していた 尼子軍は総崩れとなり退却した。 天文二十年(1551)の大寧寺の変で義隆が自刃すると、致高・隆亮父子は同二十二年(1553)に 毛利氏への従属を誓った。その後、三吉氏の女(一説には隆亮の妹)が元就の側室となり、三吉氏 は毛利氏の縁戚として勢力を保った。その所領は8万石に及び、毛利家中でもある程度の自立性を 維持していたといわれる。 天正十九年(1591)、隆亮の子・広高は比熊山城を築いて居城を移した。この年、広高は叔父の 粟屋隆信を比叡尾山城で誘殺したが、その際に隆信が「我が魂魄ながく此の土に留まりて汝を亡ぼ さん」と呪いの言葉を残したことが、居城移転の理由ともいわれる。比熊山築城に伴い、比叡尾山城 は廃城になったとみられている。 <手記> 比叡尾山城は南に馬洗川が流れる山塊の一峰に築かれています。比高差は約220mありますが、 秀吉の天下統一後に築かれた比熊山城も170mほどの比高なので、中国地方の山間部では高所に 居城を築くのは珍しくも古典的でもないということでしょうか。 南麓の比叡尾集会所の上から登山道が延びていて、かつての大手道とされています。車の場合は 熊野神社に駐車場があり、説明板もここに建てられています。東側から岩屋寺へ向かう林道があり、 城の背後の峠まで自動車で行くことはできるようなのですが、2日ほど前に雪が降ったばかりで通行 できるか不安があったため、自分は下から登りました。案の定、山の上は雪がしっかり積もっていた ので、スタッドレスを履いていても危なかったでしょう。 城内はよく整備され、一周するルートも設置されています。ただ、雪が降ってから誰も訪れていない ようで、ズボズボの新雪を踏みしめながら巡るのは大変でした。一面真っ白だと地形もよく分からない ため、あまり隅の方へは行かず、歩くのはルートのはっきりした箇所だけに留めました。 とても規模の大きな城で、三吉氏の毛利家臣としての地位の高さを伺わせます。特徴的なのは背後 の峠に臨む屋敷跡で、一部は後世の積み直しにも見えますが、長々とした石塁が残っています。また 用途不明の方形の凹状石組や堀切もあり、さすがに居館とは思えませんが、籠城の際の居住空間も 確保されていたようです。 また、南の尾根筋の曲輪群とは別に、南東の谷筋にも削平地群が設けられているのも印象的です。 この削平地群は防御性には乏しく、家臣の根古屋などと思われます。ただ、この谷筋に削平地群が 設けられなければならない蓋然性が見当たらず、個人的には不自然な感じのする遺構です。 |
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比叡尾山城遠景。 | |
南麓の登山口。 | |
竪堀跡。 | |
南尾根の腰曲輪と切岸。 | |
同じく腰曲輪群。 | |
南曲輪群で最大の曲輪の虎口。 | |
同曲輪と奥に土塁。 | |
同曲輪背後の堀切。 | |
堀切上の曲輪。 | |
三の丸下段のようす。 | |
三の丸内部の段差。 | |
三の丸上段と奥に土塁。 | |
二の丸のようす。 | |
二の丸と本丸切岸。 | |
二の丸からの眺望。 | |
本丸の門跡。 | |
本丸のようす。 | |
本丸の土塁。 | |
北の丸のようす。 | |
北の丸から見た本丸土塁。 | |
同上。 | |
北の丸の土塁。 | |
屋敷跡。 | |
屋敷跡の石塁。 | |
同上。 | |
屋敷跡の上手の堀切。 | |
屋敷跡前の石組。 | |
穴蔵跡。 | |
南東谷筋の削平地群の1つ。 | |
同削平地群。 | |
熊野神社の説明板。 |