月山富田城(がっさんとだ) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 佐々木義清か | |
遺構 : 石垣、堀、土塁、虎口、井戸 | |
交通 : JR山陰本線安来駅よりバス 「市民病院前」または「月山入口」バス停下車徒歩10分 |
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<沿革> 平安時代末期に、平(藤原)悪七兵衛景清によって築かれたとする伝承があるが、伝説の域を 出ない。一般には、承久三年(1221)の承久の乱の戦功により出雲・隠岐2国の守護に任じられ た佐々木義清によって築かれたとされる。 鎌倉時代中期に入り、出雲守護職は義清の二男泰清の三男塩冶頼泰が継いだが、頼泰の弟 で泰清の四男義泰は、富田城を受け継いで富田氏を称した。 南北朝時代の暦応四年(1341)に、頼泰の孫高貞は高師直の讒言によって山名時氏らの追討 を受け、自害を余儀なくされた。その後、出雲守護職は山名氏と、塩冶氏や富田氏、同じく佐々木 一族の京極氏の間を行き来していたが、明徳三/元中九年(1392)に京極高詮が任じられると、 以後京極氏で安定した。高詮は、甥の尼子持久を守護代として派遣し、持久は富田城に拠った。 このころ、富田氏がどうなっていたのかは定かでない。 持久の子清定は、応仁の乱で守護京極氏の影響力が薄れるなか、国人衆を圧倒して勢力を 拡大した。清定の子が、下剋上の代表格として名高い経久である。経久もまた、父の路線を引き 継いで独立傾向を強めたが、守護京極政経や塩冶氏など出雲国人の反発を招き、文明十六年 (1484)に月山富田城を包囲された。経久は城を逐われ、政経によって塩冶掃部介が代わりの 守護代に送り込まれた。しかし、同十八年(1486)に経久は奇襲をもって月山富田城を奪還し、 掃部介は自害したとされる。ただし、掃部介の名は同時代の史料や塩冶氏の系図にはみられず、 架空の人物とする見方もある(ちなみに、そのころの塩冶氏当主は貞慶とされる)。この場合、 経久は月山富田城を失ってはおらず、守護代職を解任されたのみであるとされる。 京極氏の家督争い(京極騒乱)に敗れた政経は、明応年間(1492〜1501)に出雲へ下向し、 かつて対立した経久を頼った。その後、両者は和解し、経久は守護代職に返り咲いた。政経は、 文亀二年(1502)ないし永正五年(1508)に亡くなったとされ、跡を孫の吉童子丸が継いだとされ るが、政経の死後吉童子丸の消息は途絶えている。 天文十一年(1542)四月、4万以上と号する大内氏と安芸国人衆の軍勢が出雲に侵攻した。 大内勢は周辺諸城を攻略しながら緩やかに進軍し、翌十二年(1543)初頭に月山富田城の西の 京羅木山に陣を布いた。同年三月から本格的な攻城が開始されたが、城の守りは堅く、一向に 落ちる気配をみせなかった。逆に、尼子勢はゲリラ戦で大内軍の兵站を脅かした。四月になると、 大内氏に降って攻城側に参陣していた石見・出雲の国人衆から、再び尼子氏に寝返るものが 続出し、もはや包囲を続けられる状態ではなくなった。大内義隆は撤退を決断し、五月の初めに 陣を払った。このときの尼子勢の追撃はすさまじく、義隆の養子晴持は撤退の途中で船が転覆 して溺死し、安芸勢の毛利元就も、一旦は自害を思い立つほどであった(第一次月山富田城の 戦い)。 天文二十三年(1554)、経久の嫡孫晴久は、叔父の国久とその子誠久らいわゆる「新宮党」を 粛清した。新宮党は、月山富田城の北麓の新宮谷を本拠とする親族集団で、先の富田城の戦い でも主力として活躍したが、他方で尼子家中でも突出した所領や権限をもっていた。巷説では、 この粛清は元就の離間策に乗せられたものであるとか、党内の指導権争いに端を発するなどと いわれるが、今日では晴久が家中権限の統一化を図ったものと解されている。事実、このころの 晴久はほかにも寺社勢力などの直轄化に精力を傾けており、戦国大名としての地盤の確立に 努めている。 弘治三年(1557)に元就が大内氏を滅ぼし、永禄三年末(1561)に晴久が急死すると、毛利氏 が山陰への侵攻を本格化させた。晴久が中央集権化の途上で急逝したため、逆に尼子家中の 混乱が表出してしまい、尼子氏は領地を蚕食されていった。永禄八年(1565)春、毛利勢は月山 富田城を包囲し、四月十七日から攻城戦を開始した(第二次月山富田城の戦い)。だが、やはり 籠城方の士気は高く、御子守口・菅谷口・塩谷口の三方から攻めた毛利軍は、ことごとく押し返 された。やむなく、元就は包囲兵糧攻めに作戦を切り替え、月山富田城の補給線上に位置する 尼子方の諸支城の攻略にかかった。同年九月には、毛利勢は再び月山富田城を包囲し、城の 周囲にいくつもの付城を築いて城と外部との連絡を遮断した。それでもなお、月山富田城は容易 には落ちなかった。時を耐えれば、先の大内勢のように諦めて撤退すると踏んでいたものと思わ れる。尼子方の武将山中鹿介幸盛と毛利方の武将品川大膳将員との一騎打ちは、このときの 出来事である。 翌永禄九年(1566)一月、それまで私財をなげうって兵糧を調達し、籠城戦を支えてきた重臣 の宇山久兼が、元就の放った流言に惑わされた晴久の子義久によって殺害された。忠臣久兼 の誅殺は、尼子勢を疑心暗鬼に陥らせ、士気は大いに下がった。しかし、近年では殺害された のは久兼の子久信ないし一族の宇山飛騨守なる人物で、久兼ほどの影響はなく、士気の減退 は限定的であったとする説もある。いずれにせよ、このころから兵糧攻めの効果が表れはじめ、 城内からの脱走兵が相次いだ。当初、元就はこれらの兵卒を切り捨てるよう命じ、脱走すること もできない将兵による、飢餓と士気減衰の加速化を狙った。その後、義久の側近牛尾豊前守が 投降を打診してきたのを契機として脱走者の受け入れに転じると、城を退去する者が続出した。 同年四月には、毛利勢が月山富田城の本城域へ至る登城路である「七曲」まで攻め寄せたこと が、当時の書状などから明らかになっているが、それでも落城寸前で食い止められていた。 しかし、同年十一月には、義久はこれ以上の籠城は不可能と判断し、降伏した。義久は助命 されたものの、大名としての尼子氏は滅亡した。月山富田城には、毛利家臣天野隆重が城代と して入った。永禄十一年(1568)には、元就の五男元秋がもう1人の城代として入城した。元秋は、 周防の椙杜隆康の養子となっていたが、月山富田城入城に際して養子関係を解消し、富田氏を 名乗ったとされる。 鹿介ら旧尼子家臣の一部は、その後誠久の子勝久を擁立して尼子再興軍を編成した。永禄 十二年(1569)、再興軍は隠岐を経て海路出雲に上陸し、新山城を奪取して拠点とした。同年 七月、再興軍は月山富田城を包囲した。城には、元秋・隆重以下数百の兵しかいなかったが、 両者は籠城策を採って再興軍の攻撃を耐えた。再興軍が月山富田城攻略に手間取っている間 に、毛利勢の援軍が到着し、形勢は逆転した。翌元亀元年(1570)二月の布部山の戦いで再興 軍が敗北すると、援軍の大将毛利輝元は、月山富田城に入って元秋・隆重らの労をねぎらった。 天正十三年(1585)、元秋は月山富田城で病死し、元秋の弟末次元康がその遺領と城を継承 した。天正十九年(1591)、元康・元秋の甥で吉川元春の三男の広家が、豊臣秀吉の命により 月山富田城主となった。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、広家は主家毛利家の存続を条件に徳川家康への内通を 申し出たが、戦後毛利家は周防・長門2国への減封とされた。代わって、堀尾忠氏が出雲・隠岐 2国24万石に封じられた。忠氏とその父吉晴は月山富田城に入城し、城を整備した。 しかし、月山富田城は中世的な山城で発展性が乏しく、さらに領国の東に寄りすぎていたため、 堀尾父子は慶長九年(1604)に新たな居城の築城を企図した。忠氏はその年に急逝してしまい、 跡を忠氏の子忠晴が継いだが、幼少であったため吉晴が後見した。吉晴は、忠氏が生前推して いた亀田山に松江城の築城を開始し、同十六年(1611)に完成した。落成目前で吉晴も死去し、 忠晴は月山富田城を廃して松江へ移った。そのようすは、「思いがけない松江ができて 富田は 野となり山となる」とうたわれた。 <手記> 月山富田城は、山陰の覇者尼子氏の居城として、また大内氏や毛利氏の大軍をもってしても 力では落とせなかった堅城の代表格として知られています。城のある広瀬へは、JR安来駅から 2通りのバスが出ており、市民病院前または月山入口で下車します。便によってはえらく遠回り するものもあるようなので、注意が必要です。 何といっても、この城は月山の山容にこそ驚かれぬるところです。標高は200m弱と意外と高く ないのですが、山の外観があまりにも峻険なため、実際以上に高く見えます。ただ、この月山の 城はいわゆる詰城で、山の周囲の尾根筋にもびっしりと曲輪が展開しています。とりわけ、月山 北西に延びる2筋のなだらかな尾根上には、山中御殿以下根小屋の曲輪群が続いています。 近年、発掘調査や整備が進められていますが、今のところその範囲は2つある尾根のうち東側 の太鼓壇の尾根に限られているようです。おそらく地権の問題なのでしょうが、西側の岩倉寺の 尾根はいまだ手つかずです。2つの尾根の間の、かつて御子守口と呼ばれた谷戸には、農家が 1軒あって谷戸だが連なっているのですが、そのうち1枚か2枚を使って駐車場が整備されている ようです。太鼓壇の尾根の北麓には、道の駅と郷土資料館があるので、こちらで情報収集をされ ると良いかと思います。 現在、月山富田城には山中御殿や山上の三の丸などを中心に、立派な石垣が散見されます。 これらの石垣は、ほとんどが関ヶ原戦後の堀尾氏によって築かれたもので古くても毛利氏時代 のものとされています。一般的に、尼子氏の城には堀も土塁もなく、同氏の築城技術はきわめて 未熟であったとされています。そのため、尼子氏時代には石垣はなかったとする見方が有力な ようですが、私はそこまで断言してしまうのは早計だと考えています。たとえば、同じ時代の大名 である六角氏の居城観音寺城にも堀や土塁はなく、縄張りはこの上なく未熟といえます。しかし、 観音寺城はその稚拙な縄張りには似付かないほど高度な技術で築かれた石垣を擁しています。 背景には、六角氏と寺社勢力との関係が指摘されていますが、尼子氏も鰐淵寺や杵築大社など の寺社勢力の取り込みに勢力を注いでいたことが知られており、その文脈で月山富田城に石垣 を築いていたとしても、不思議ではありません。 月山へは、山中御殿の背後から「七曲」と呼ばれる九十九折れの急坂を登ります。途中、山吹 井戸や腰曲輪群を横目に登りつめると、眼前に階段状の三の丸の石垣が現れます。ここから、 二の丸・本丸と連郭式に曲輪が続きます。二の丸と本丸の間には、数少ない堀切があります。 また、二の丸は展望台となっています。雨が降ったり止んだりの天気でしたが、それでも美保関 周辺の山や境港の海まで臨むことができました。月山富田というと、幾分山奥のイメージがあり ますが、これほどの眺望が開けていれば、下剋上の覇気も生まれるというものです。本丸は非常 に細長く、その最奥に勝日高守神社が鎮座しています。本丸内部にも、堀や仕切りの段差と思わ れる箇所がいくつかみられますが、詳細は不明です。 月山富田城は、力攻めで落ちたことは1度もなく、名実ともに天下の堅城といえます。その規模 は、全容をうかがうには数日を要するといわれていますが、残念ながら多くの遺構は森の中です。 現在進行形で整備が進められていますが、戦国屈指の山城として、今後とも発掘調査や史跡化 が進展することを期待します。 |
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月山を望む。 | |
北西方面から月山富田城を望む。 中央の建物は道の駅。その裏手の丘が太鼓壇の尾根。 |
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千畳敷の石垣。 | |
千畳敷と太鼓壇の間の土塁。 | |
奥書院の土塁。 | |
奥書院のようす。 | |
奥書院の復元建物。 | |
奥書院と花の壇の間の堀切。 | |
花の壇から山中御殿平と月山を望む。 | |
花の壇の石垣。 | |
山中御殿平のようす。 | |
山中御殿平の門跡×2。 | |
山中御殿平の溝跡。当時の遺構かは不明。 | |
塩谷口門跡。 | |
山中御殿平俯瞰。 | |
山吹井戸跡。 | |
月山三の丸の石垣。 | |
三の丸の虎口跡。 | |
三の丸のようす。奥の建物は二の丸の四阿。 | |
二の丸から堀切越しに本丸を望む。 | |
二の丸下の虎口石垣。 | |
二の丸からの眺望。 奥に中海や美保関の山々がうっすら見えます。 |
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本丸のようす。 | |
本丸から京羅木山を望む。 | |
勝日高守神社。 | |
岩倉寺の尾根の能楽平跡。 | |
岩倉寺の尾根にある堀尾吉晴墓。 |