曳馬城(ひくま) | |
別称 : 引馬城、引間城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 今川貞相か | |
遺構 : 曲輪跡、堀跡 | |
交通 : 遠州鉄道遠州病院駅徒歩10分 | |
<沿革> 今川貞世(了俊)の孫で遠江今川氏4代の今川貞相によって、15世紀前半頃に築かれたと いわれるが、異説もある。貞相の子範将は遠江守護斯波氏と激しく対立し(中遠一揆)、その 子貞延も、宗家である駿河守護今川義忠と共に遠江の覇権を争って挙兵したが、文明六年 (1474)に戦死した。一方で、曳馬城のある浜松荘は足利一門の吉良氏が支配権を保有して いたとされる。『宗長手記』などでは、浜松荘代官として吉良家臣飯尾長連の名が見られる。 飯尾氏は三善氏の後裔で、室町幕府の奉行衆を務めていたと伝えられるが、確証はない。 長連は、義忠に呼応して文明八年(1476)に戦死したが、吉良氏は親斯波派の大河内貞綱 を後任の浜松荘代官としたため、長連の子賢連は今川氏を頼った。 文亀元年(1501)、義忠の子氏親が貞綱を追い落とすと、賢連が浜松荘代官に任じられた。 永正九年(1512)、貞綱は曳馬城の奪取に成功するが、翌十年(1513)に賢連や今川家臣 朝比奈泰煕らに攻められ降伏した。同十三年(1516)、貞綱は再度兵を挙げて曳馬城を奪い、 遠江守護斯波義達を招いて籠城した。翌十四年(1517)、氏親が城を攻囲すると、貞綱らは よく耐えたが、安倍金山の金掘り衆によって井戸の水源が断たれるとついに開城した。貞綱 は自害し、義達も捕えられて守護職を失った。このとき、賢連は吉良家臣から今川家の直臣 に転じ、氏親から改めて曳馬城主に任じられた。 こうして、飯尾氏は今川氏の遠江支配の実務を請け負う重臣となったが、賢連の子乗連は 永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで討ち死にしたとされる。遠江の諸将が三河国で独立した 徳川家康に寝返るなか、乗連の子連龍も、同六年(1563)に今川氏から離反した。今川氏真 が曳馬城に兵を送ると、連龍はこれを撃退し、今川方の新野親矩や中野直由らが戦死した。 永禄七年(1564)、氏真は再び曳馬城を攻めさせたが、やはり落とせなかったようで和議を 結んだ。翌八年(1566)十二月、連龍は氏真に求められて駿府へ出仕した際に屋敷を囲まれ、 誅殺された。主を失った曳馬城は去就を巡って混乱し、その隙をついて家康に占拠されたと される。一説には、連龍未亡人のお田鶴の方(椿姫)が城内を取りまとめて守っていたところ、 家康が降伏を勧告したものの拒絶したため、徳川軍に攻め落とされ討ち死にしたとされる。 ただし、この逸話およびお田鶴の方の実在を裏付ける史料はない。 経緯はともあれ曳馬城を手に入れた家康は、元亀元年(1570)に城を山手へ拡張し、城名 を浜松城と改めた。旧曳馬城は古城と呼ばれ、浜松城の外郭に取り込まれた。同三年(15 73)の三方ヶ原の戦いで、武田軍に惨敗した家康はわずかな供回りとともに命からがら逃げ 戻ったが、このときに帰り着いたのが古城の元目口とされている。 <手記> 曳馬城は、上述のとおり浜松城の外郭となって、江戸時代の絵図にも「古城」として記され ています。それによると、田の字に4つの曲輪が並んでいて、ぱっと見は南九州型のような 縄張りです。城域は住宅地となっていますが、この田の字に切り分ける堀跡は、今も道路と なって残っています。 地図や縄張り図で見るよりも高低差があり、現地を訪れると、台地の角ないし丘陵の先端 を利用した城であることが分かるでしょう。第2象限にあたる区画が本丸とされ、現在は元城 町東照宮が鎮座しています。三方ヶ原の戦いで家康が逃げ帰ったとされる元目口(玄黙口) は切り通し道の出口として残り、個人的には近世浜松城よりも城跡の雰囲気をとどめている ように感じました。 |
|
明光寺口から本丸跡を見上げる。 | |
曳馬城跡の石碑。 | |
本丸跡の元城町東照宮。 | |
境内の家康と秀吉の像。 秀吉が若いころに仕えたとされる松下之綱は飯尾氏の寄子でした。 |
|
十字の堀跡が交わる地点。 | |
元目口の堀跡。 | |
元目口。 | |
元目口から本丸跡を見上げる。 |