浜松城(はままつ) | |
別称 : 曳馬城、出世城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 徳川家康 | |
遺構 : 石垣、曲輪、井戸跡 | |
交通 : 遠州鉄道遠州病院駅徒歩10分 | |
<沿革> 永禄十一年(1568)に曳馬城を手に入れた徳川家康は、元亀元年(1570)に城を山手へ 拡張して岡崎城から移った。このとき、周辺に存在した浜松荘にちなんで城名を浜松城と 改めた。 元亀三年(1573)十二月、西上作戦途上の武田信玄が浜松城へ迫ったが、城の眼前で 転進し、素通りする動きを見せた。家康は誘い出される形で出撃し、背後を襲わんとしたが、 万全の陣形で待ち構えていた武田勢に壊滅的な敗北を喫し、僅かな供回りとともに命から がら城へ逃げ帰った。このとき、家康は後から帰城する将兵のために、城門を開いたまま にさせたと伝わる。この三方ヶ原の戦いでは、武田家重臣の山県昌景が空城の計を訝って 城内への突入を止めた、酒井忠次が太鼓を打ち鳴らして伏兵を疑わせた、家康は恐怖の あまり馬上で脱糞していたといったさまざまな逸話があるが、ほとんどは同時代の史料での 裏付けができていない。 武田氏の滅亡や天正壬午の変によって駿河・甲斐・信濃を獲得し、豊臣秀吉に臣従した 家康は、天正十四年(1586)十二月に居城を浜松から駿府城へ移した。浜松城には、菅沼 (土岐)定政が城代として置かれた。 天正十八年(1590)に徳川家が関東へ移封となると、豊臣家臣堀尾吉晴が12万石で浜松 城主となった。堀尾家の治世は関ヶ原の戦いまで続き、この間に近世城郭として整備された とみられる。 関ヶ原の戦功により、堀尾吉晴・忠氏父子が慶長五年(1600)に出雲一国24万石へ加増・ 転封となると、翌六年(1601)に桜井松平忠頼が5万石で浜松藩主となった。しかし、忠頼は 同十四年(1609)に親族である水野忠胤の屋敷へ招かれた際に、水野家臣同士の喧嘩に 巻き込まれて落命した。 これにより浜松領は収公され、同年に駿府藩主となった家康の十男徳川頼宣の附家老で ある水野重央が2万5千石で浜松城主となった。元和五年(1619)に頼宣が紀州藩へ移封と なると、代わって高力忠房が岩槻藩から3万5千石で入封した。 忠房が島原の乱後の復興を託されて寛永十五年(1638)に島原藩主へ転じると、その後 は大給松平乗寿・太田家2代・青山家3代・本庄松平家2代・大河内松平家2代・本庄松平家 2代・井上家3代・水野家2代・井上家2代と、譜代大名が目まぐるしく転出入した。 神君家康の旧居城であり、譜代の雄が歴代藩主を務めたため、浜松城は出世城とも呼ば れた。しかし、歴代藩主22人のうち老中に昇ったものは6人に留まる。うち3人は、水野忠邦 以降の江戸時代末期に集中している。 <手記> 松潤が家康役を務める大河ドラマの影響で注目されているであろう浜松城ですが、自分は 運よく放送開始の前月に訪れました。普段の人出は分からないのですが、それなりに混んで いたように思います。 都市部の近世城郭跡にはありがちですが、浜松城についても、その残存状況については かなり残念というのが正直な感想です。石垣や曲輪の形状を留めているのは天守曲輪のみ で、大河ドラマ効果が見込めることはあらかじめ分かっていたのですから、もう少し整備する なり発掘調査を行うなりできたのではないでしょうか。模擬天守も天守台に比べてだいぶアン バランスで、政令指定都市まで発展した浜松のシンボルとしては、やや弱いように思います。 個人的には、曳馬城跡の方が城跡の雰囲気をまだとどめているように感じました。 ちなみに、浜松城天守は堀尾氏時代にはあったものの、江戸時代を通じて存在しなかった と考えられています。天守台には井戸跡があり、これは堀尾氏が後に築いた松江城に通じる 特徴とみられます。 |
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浜松城模擬天守。 | |
同上。 | |
天守台の井戸跡。 | |
天守から曳馬城跡を望む。 | |
天守から出丸を望む。 | |
天守曲輪のようす。 | |
天守曲輪の井戸跡。 | |
天守台背後の八幡台。 天守台より高く、守護神が祀られたとみられています。 |
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天守曲輪搦手の埋門跡。 | |
天守曲輪搦手の石垣。 | |
作左曲輪跡の説明板と石碑。 | |
作左曲輪跡現況。 | |
天守門を見上げる。 | |
天守曲輪の古石垣。 | |
本丸のようす。 | |
本丸鉄門跡。 |