阿尾城(あお) | |
別称 : 大ヶ崎の城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 不明 | |
遺構 : 曲輪跡、堀切 | |
交通 : JR氷見線氷見駅からバスに乗り、 「阿尾」下車徒歩5分 |
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<沿革> 発掘調査の結果からは、15世紀後半までに築かれていたと推測されている。史料上は、 天正八年(1580)に城主・菊池武勝(右衛門入道)が織田信長から知行を安堵する朱印状 を与えられたのが初出とされる。武勝は肥後菊池氏の一族で上杉謙信に仕えて阿尾城主 に取り立てられ、謙信死後に織田氏へ転じたといわれるが、前歴は定かでない。 天正十三年(1585)の富山の役に際して、武勝・安信父子は豊臣秀吉方の前田利家に 通じ、前田勢を阿尾城に招き入れた。このとき入城した武将の1人が、前田慶次であったと される。越中国主・佐々成政は守山城主神保氏張を討手に差し向けるが、前田方の村井 長頼らの奮戦により撃退に成功した。 同年八月に成政が降伏し、越中国内の神通川以西が前田領となると、菊池氏は阿尾城 1万石を安堵されたが、武勝入道は城を出て山城国紫野に隠棲した。慶長元年(1596)に 安信が没すると子の大学(越中斎藤氏からの養子とも)が家督を継いだが、阿尾1万石は 収公され、新たに1500石が宛てがわれた。これにより、阿尾城は廃城となったとみられて いる。 <手記> 阿尾城は富山湾に突き出た風光明媚な城ヶ崎の岬にあり、県の史跡に指定されている からか地図や市内の標識などあちこちで名前を目にします。ですが、そんなアピールぶり に反して遺構の状況は良くありません。細長い尾根に大きく3つのピークがあるのですが、 城跡らしさが感じられるのは先端の本丸周辺くらいです。 本丸は上下2段に削平されていますが、やはり城の造作かどうかは不明です。展望台が 設置されているものの、周囲の木が育ってしまっていて、園内の他の場所からの方が眺め は良好でした。また、本丸へ向かう細尾根の鞍部にはっきりとした堀切跡が見受けられ、 これが阿尾城で明確に城の造作と分かる唯一のものと思われます。 2番目のピークは白峰社の跡地で、2段程度に削平されています。榊葉乎布神社の境内 となっている最後尾のピークとの間の鞍部が広々とした段築の公園となっていて、ここに 二の丸と三の丸があったというのですが、個人的にはそれぞれ2番目の3番目のピークと するのが普通ではないかと大いに疑問に感じました。当時の地形を踏襲しているというの なら、この鞍部に屋敷などが営まれていたと推測されますが、後世の造成による色合いが 強いような感じです。 阿尾城跡は城砦を築くにはお誂え向きの地形で、交通や経済の観点からも要地である といえるでしょう。直感的には南北朝時代から目を付けられていてもおかしくはなく、その ころの文献に見られ、一般的には朝日山城に推定されるという「氷見城」の候補地に挙げ てもよいように思います。 |
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比美乃江公園から阿尾城跡を望む。 | |
本丸のようす。 | |
同上。 | |
阿尾城跡から氷見市街を望む。 | |
同じく守山城跡を望む。 | |
本丸へ向かう細尾根の堀切跡。 | |
同上。 | |
2つ目のピークの白峰社跡。 | |
2つ目のピークの下段削平地。 | |
3つ目のピークとの間に広がる鞍部の削平地。 | |
鞍部の北側に突き出た展望台状の削平地。 | |
鞍部の二の丸と呼ばれるあたりのようす。 | |
同じく三の丸と呼ばれる削平地から 3つ目のピークを見上げる。 |
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3つ目のピークの榊葉乎布神社。 |