日向氏屋敷(ひなたし)
 別称  : 御小路館
 分類  : 平城
 築城者: 日向氏か
 遺構  : 土塁
 交通  : JR中央本線長坂駅からバスに乗り、
      「高根総合支所」下車徒歩5分


       <沿革>
           武田家臣日向大和守の屋敷地とされる。『北巨摩郡誌』によれば、日向氏は「武田家
          逸見の一族」とあるが、詳しい出自は不明である。はじめ須玉町比志周辺を拠点として
          いたとみられており、大永八年(1528)の比志神社の棟札に、大檀那として日向大和守
          是吉およびその子虎忠の名が見られるのが初出とされる。
           『甲陽軍鑑』によれば、天文十九年(1550)に武田晴信が小笠原長時を駆逐した際、
          馬場信春とともに日向大和守が深志城代に任じられたとされる。これ以降の大和守の
          諱は虎頭となっており、是吉とは同一人物ないし親子とみられている。
           虎頭は武田家重臣として、後に大島城代を務めたとされる。『甲斐国志』によれば、
          屋敷北東の光村寺は、天正十年(1582)三月二十一日に没した日向大和守入道宗英
          が興したとされる。同月には織田信長による武田攻めが行われており、武田氏の滅亡
          によって、日向氏も没落したものと考えられている。また、『北巨摩郡誌』では光村寺を
          天正年中(1573〜92)に日向大和守昌時が開基したものとしているが、虎頭との関係
          は明らかでない。なお、旗本日向家の祖となった日向政成は、越後新津氏の出身で
          是吉の妹婿となったとされる日向宗立の子である。


       <手記>
           『日本城郭大系』では、長方形に近い形をした於小路の集落ほぼ全域を屋敷の範囲
          としています。一方、上に図示した集落の北東部に東西方向の土塁があり、その北側
          はひときわ広い旧家となっています。集落全体が日向氏関連の敷地だったとしても、
          屋敷の中心はおそらくこの北東ないし北3分の1の区画だったのではないかと、個人的
          に推察しています。日向氏は武田家中でもかなり地位の高い重臣なので、屋敷の南に
          根古屋が広がっていたとしても、不思議ではないでしょう。

           
 屋敷地北東隅の旧家を望む。
旧家南側の土塁。 


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