新井屋敷(あらい)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 新井輝盛か
 遺構  : 土塁
 交通  : JR五日市線武蔵引田駅よりバス
       「新井薬師看板前」バス停下車


       <沿革>
           『新編武蔵国風土記稿』によれば、後北条氏の家士新井伊賀・同十郎兵衛が住していたとされる。
          十郎兵衛は、諱を輝盛といい、新井伊予守輝高なる人物を祖とするとされる。輝高は文明二年(14
          70)に死去しており、輝盛の代に至って北条氏に仕え、当地に居を定めたとされる。『記稿』では、
          伊賀を輝高の子とし、輝盛は伊賀の子と推測している。輝盛は、天正六年(1578)に没している。
           新井氏は、天正十八年(1590)に北条氏が滅ぶと、姓を佐久間と改めて八王子千人同心となった。
          
       <手記>
           新井屋敷は、平井川が緩やかに蛇行する内側の台地平坦部の中心付近にあったとされています。
          近くの五日市には、新井氏と同じく千人同心となった来住野氏のがありますが、両者の館は立地
          条件が似ています。あるいは、この地方の1つのトレンドなのかもしれません。
           現在、館跡のものとされる土塁が部分的に残っています。私が見たところ、上の地図にあるとおり、
          南北方向2本・東西方向1本の3本の土塁が認められ、そのうち北側の2本は同じお宅の2辺を囲って
          いて、繋がっています。ところが、『日本城郭大系』の要図には、このうち南側の南北方向の1本しか
          掲載されていません。この南側の土塁は、3本のなかではもっとも不明瞭で小規模なものです。もし、
          3本とも当時の遺構であるとすれば、より明瞭な北側の土塁に気付かないはずはありません。北側の
          土塁は、近年に住宅を新築ないし改築した際に新しく設けられたものである可能性も考えられますが、
          戦後の住宅にわざわざ土塁を築くというのも、かなり稀なように思われます。何とも判別がつきません
          が、もし3本とも遺構であるならば、新井屋敷は最低でも2つの曲輪が並んでいたことになります。

           
 南側南北方向の土塁の南端付近。
 『日本城郭大系』に記載があります。
 現在は墓地に転用されているようです。
南側南北方向の土塁北端付近。 
『大系』に記載有。 
 北側の南北方向の土塁。
 『大系』に記載なし。
東西方向の土塁。 
『大系』に記載なし。 


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