御館(おたち)
 別称  : 平戸城
 分類  : 陣屋
 築城者: 松浦鎮信ないし隆信
 遺構  : 石垣
 交通  : 松浦鉄道たびら平戸口駅よりバス
       「平戸桟橋」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           平戸藩主松浦鎮信(法印)は、慶長四年(1599)から日之岳城(後の平戸城)の築城を開始したが、
          同十三年(1608)ないし十八年(1613)に自ら火を放って廃城とした。その後、はじめ中之館を築いて
          藩邸とし、次いで御館へ移った。中之館から御館への移行時期は不明であるが、『日本城郭大系』
          によれば、寛永四年(1627)の幕府の探索書に示された「平戸城」の位置が御館のものと符合する
          として、同年までには御館が平戸藩邸となっていたと推定している。これが正しければ、御館は鎮信
          ないしその孫隆信(宗陽)の代に築かれたことになる。
           宝永四年(1707)、5代藩主松浦棟が幕府の許可を得て日之岳城址に平戸城(亀岡城)を築き直す
          と、藩府は御館から平戸城へ移った。御館がその後どのように利用されたのかは詳らかでないが、
          明治維新後の明治二十七年(1894)に、御館は旧藩主松浦家の私邸として建て直された。

          
       <手記>
           御館は平戸の旧市街と港を見下ろす傾斜地にあり、対岸には平戸城天守閣が聳えています。藩邸
          であり陣屋造りであるということから、平戸陣屋などと呼ぶ方が妥当なような気がしますが、どういう
          わけか「御館」という呼称で統一されているようです。鎌倉時代から平戸に根差している平戸松浦氏
          とその領民にとっては、単に御館と呼ぶだけで十分だったのかもしれません。
           陣屋ですから、とりたてて要害性はありません。が、館としても結構高い位置にあり、下から登ると
          息が切れます(笑)。平戸は寛永十八年(1641)まで長崎と並ぶ南蛮貿易の港でしたから、オランダ
          商館に対して物理的に上位に立っている必要があったのかな、と個人的には感じました。
           現在、館跡には明治に建てられた旧藩主家の私邸が松浦史料博物館として残っています。建物は
          かなり敷地いっぱいに建てられているようで、近影を撮ることができないくらいでした。御館の東隣に
          は「御部屋の坂」と呼ばれる石坂があり、その脇に段々に建ち並ぶ石垣を伴なった民家は、かつての
          家臣団屋敷跡だそうです。

           
 平戸城天守閣から御館を望む。
御館へ登る石段。 
 御館東隣の御部屋の坂。


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