平戸城(ひらど) | |
別称 : 亀岡城、日之岳城、日之嶽城、亀甲城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 松浦鎮信 | |
遺構 : 門、櫓、石垣 | |
交通 : 松浦鉄道たびら平戸口駅よりバス 「猶興館高校入口」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 慶長四年(1599)、平戸領主松浦鎮信(法印)によって、それまでの勝尾嶽城に代わる新たな居城 として築城が開始された。この城は日之岳城と呼ばれたが、同十二年(1607)ないし十八年(1613)、 に、法印自身によって火が放たれ、廃城とされた。理由について、『壺陽録』や『三光譜録』では法印 の嫡子久信の急逝を悼んでのこととされる。ただし、久信の逝去は同七年(1602)のことであり、これ と城の自焼を直結させることには疑問も多い。今日では、徳川幕府の警戒をかわすためとの見方が 大勢である。事実、同五年(1600)の関ヶ原の戦いで久信は当初西軍に属して戦っていたため、幕府 への恭順を形で示す必要性は、充分にあったと考えられる。廃城時、城は七分方の完成であったとも いわれる。だたし、築城開始から8年以上が過ぎて、まだ出来上がっていなかったとは考えにくい。 その後、平戸藩の藩府は中之館、ついで御館へと移ったが、日之岳城焼失から約100年が過ぎた 元禄十六年(1703)、5代藩主松浦棟は幕府から日之岳城再建の許可を得た。この背景には、棟が 寺社奉行に取り立てられるなど幕府の信任を得ていたことがあるとみられている。再建運動自体は、 棟の先代鎮信(天祥)のときから行われており、鎮信が師事した軍学者山鹿素行と、家老として召し 抱えた素行の弟ないし子の義昌(平馬)によって縄張りはすでに完成していたといわれる。翌十七年 (1704)に着工し、宝永四年(1707)に完成したとされる。山鹿流で築かれた新生平戸城には天守は 築かれなかった。 棟以降、松浦氏は8代を数えて明治維新を迎えた。 <手記> 平戸城は、平戸瀬戸に半島状に突き出た丘陵上に築かれた城です。天守閣以下複数の櫓や門が 城内に建ち並んでいますが、北虎口門と付属の狸櫓を除いてすべて戦後の復興です。天守について は、『日本城郭大系』では往時存在していたように書かれていますが、古図には本丸に櫓は描かれて おらず、平戸城に先だって山鹿流で築かれた赤穂城にも天守は上げられなかったことなどから、その 存在はほとんど否定されています。 現在の平戸城の建造物は、時代を考えれば仕方のない面もありますが、同年代の他の復興城郭と 比べても、かなりお粗末なつくりであるといえます。現存建築物である北虎口門と狸櫓でさえ、ガラス 窓を付けられていたり内部を改装されていたりと、手が加えられてしまっています。ほかにも、位置が おかしい上に扉のついていない本丸門や、櫓を復興したいというより売店を建てたかっただけの乾櫓 など、至るところ痛々しい復興建築物が並んでいます。 逆にいうと、見どころは石垣や山鹿流の縄張り、そして長崎と並ぶ貿易港として栄えた城下といえる でしょう。平戸は、狭い入り江に観光名所が集中しており、ひとたび到着してしまえば後は徒歩で見て 回れるという長所をもった町です。旧城下町のメインストリートは、城から入り江を挟んだ対岸の一本道 なので、古い街並みを一往復するだけで楽しむことができます。城下町と、旧藩邸の松浦史料博物館 の間には平戸温泉という無料の手湯・足湯があるのも嬉しいポイントです(笑)。 |
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オランダ商館跡付近から平戸城を望む。 | |
天守閣近望。 | |
天守閣から平戸瀬戸越しに九州本島を望む。 手前左は見奏櫓。右手奥は懐柔櫓。 |
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見奏櫓近望。 | |
模擬本丸門。本来門の無かった桝形手前にあります。 | |
本丸門のあった桝形。 | |
現存する北虎口門。 右手奥に同じく現存の狸櫓。 |
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地蔵坂櫓を望む。 | |
乾櫓を見上げる。 | |
二の丸御殿跡のようす。 右手奥に模擬天守。中央は亀岡神社。 |
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一の大手跡。 | |
(二の)大手跡。 | |
二の丸方啓門跡。 | |
御厩跡に立つ猶興館高校入口。 往時は手前の道路まで海水を引きこんだ堀が入っていました。 |
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城と城下を結ぶ幸橋。 |