広沢堂山(ひろさわどうやま) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 不明 | |
遺構 : なし | |
交通 : JR武蔵野線北朝霞駅徒歩10分 | |
<沿革> 波多野遠義の子(ないし遠義の子義通の子)とされる余三実方は、久寿二年(1155)の大蔵合戦 の戦功により武蔵国広沢郷を得て広沢氏を名乗った。それ以前から広沢荘が存在していたとされる。 実方は、その後の源平合戦でも武功を挙げ、備後国三谷郡に地頭職を与えられた。実方の子実高は、 承久三年(1221)の承久の乱頃を境に子の実村を備後に下向させ、和知氏や江田氏の祖となった。 広沢荘は実高の嫡子実能が継いだと推測されるが、その後の広沢氏については詳らかでない。 康安元年(1361)、太田資益の子資通が鎌倉公方足利基氏より父の遺領を改めて賜ったが、その なかに広沢が含まれている。ただし、資益・資通の名は『別本太田系図』にしかみられず、実在したか は不明である。したとすれば、資通は道灌(資長)の曽祖父にあたる。 永禄二年(1559)成立の『小田原衆所領役帳』には、太田康資が「江戸 広沢」に所領をもっていた ことが記されている。ただし、この「広沢」については「広沢内根岸」といった記述もあり、現在の上野 不忍池付近にかつて広沢村が存在したことから、こちらの広沢を指すものと考えられている。 現在広沢池のほとりにある広沢観音堂は、かつては南の山上にあり、堂宇も広大であったという。 『新編武蔵国風土記稿』によれば、天正十八年(1590)の小田原の役における滝の城での戦いに際 して、北条氏照方によって観音堂は火をかけられたとされる。 <手記> 広沢堂山は、現在の朝霞第八小学校のあたりを指すとされています。堂山を「城山」の転訛と捉えた ものと思われますが、それ以前に観音堂が付近にあったということで、お堂の山という意味の堂山なの ではないかと思えてなりません。堂山は、北に広沢池とその谷戸、南側にも小沢が流れる台地の端に あり、城館があったとしてもおかしくはありません。 ただ、広沢氏の存在がある以上、その館がどこかに営まれていたことは間違いありません。朝霞は、 古来湧水に恵まれた土地だったということで、広沢池周辺だけが館の候補地とはいえないでしょうが、 このあたりに居館を設けていたことは十分に考えられます。 また、資通の実在はともかく、付近が戦国期に太田氏の所領であったことはうなずけますから、その 出先機関が置かれていたとしても不思議ではありません。 ちなみに、すぐ西側には国家公務員宿舎建設計画で知られる米軍キャンプドレイク跡地があります。 |
|
堂山近望(朝霞第八小学校)。 | |
広沢池。奥に観音堂があります。 |