滝の城(たき)
 別称  : 本郷城
 分類  : 平山城
 築城者: 大石氏か
 遺構  : 曲輪、櫓台、堀、土塁
 交通  : JR武蔵野線東所沢駅徒歩20分


       <沿革>
           いつごろ築かれたのかは詳らかでない。江戸時代後期に編纂された『小田原編年録』には、大石
          信濃守定重が居城していたとされる。ただし、大石氏はもともと高月城を居城としており、定重(また
          はその子定久)の代に滝山城へ移ったとされる。多摩川の利権を重要視していた大石氏が、突然
          滝の城へ居城を移すだけの理由が見当たらず、『編年録』の記述には疑問が残る。あるいは、滝の
          城と滝山城を混同したものとも考えられる。
           定久は、北条氏康の三男氏照を養子に迎え、大石氏は後北条氏麾下に組み入れられた。滝の城
          が明確に史料に登場するのは、後北条氏の城としてである。永禄七年(1564)の『清戸三番衆交代
          命令状(または清戸三番衆着到状)』には、清戸三番衆の三田・師岡両氏に対して決められた日時
          に布施氏と城番を交代し、有事の際には滝の城に兵を集結させることを命じる内容が記されている。
          清戸三番衆とは、同六年(1563)に北条氏に滅ぼされた三田綱秀の遺臣で形成された、氏照配下
          の組織である。
           天正十八年(1590)の小田原の役で、氏照の本城である八王子城と前後して豊臣勢に攻め落と
          されたものとみられている。『新編武蔵国風土記稿』には、当初東南から攻撃を受けていたが、不意
          に北の大手から攻め寄せられたためにまもなく落城したとする村民の話を収録している。北条氏の
          滅亡とともに廃城となったものと思われる。

       <手記>
           滝の城は、柳瀬川の河岸段丘上に築かれた城です。小田原や江戸と、川越や岩付を結ぶ線上に
          あり、交通の要地であるとともに、柳瀬川流域を押さえる役割もあったと思われます。
           滝の城という呼称は、城内に小さな滝が流れていたことから付けられたとされています。『日本城郭
          大系』では、こうしたいわれから滝の城とは別称であり、地名をとった本郷城というのが正式な名称で
          あったのではないかと提起しています。しかし、本郷城という名が記された資料はなく、そもそも当時
          から周辺が本郷と呼ばれていたのかも確かではないため、あくまで推測に過ぎません。
           現在、本丸には城山神社が鎮座し、主城域は滝の城址公園として整備されています。本殿の左手
          には、櫓台と思われる稲荷社があります。さらに本殿の裏に回ると、発掘によって発見された四脚門
          跡の説明板があります。その先には土橋を隔てて馬出し状の曲輪があり、当時は土橋の上に引橋が
          架けられていたことが明らかとなっています。この馬出しの西に(おそらく)二の丸が、東には三の丸
          (別名茶呑み郭)があります。二の丸・三の丸の外側は、堀を隔てて土塁を兼ねた掻き上げの曲輪が
          巡り、堀は東西の脇で竪堀となって崖下に落ち込んでいます。馬出しの対岸の土塁は、蔀土塁のよう
          になっていて、伝物見台と呼ばれています。
           主城域の外側には外郭があり、かつては東辺の土塁と堀が残っていたそうですが、現在では宅地
          や畑地となっていてその痕跡をほとんどとどめていません。三の丸の北東の住宅の隅に、やはり物見
          台と呼ばれる土塁があります。ここは、外郭の堀が屈曲する虎口だったようです。ここからさらに東に
          進むと、小さな四阿を経て崖下の運動場へ向かう階段があります。この階段を下りる途中に、外郭堀
          が竪堀として落ち込む崖際の部分が望めます。自然地形のようにも見えますが、貴重な外郭の遺構
          といえます。他に、北辺の外郭土塁の一部が、畑と民家の間にわずかに残っています。
           滝の城址は、地元保存会の方々の活動もあって、後北条氏後期の城のようすを今に伝える、すばら
          しい城跡といえます。ただ、ひとつ疑問なのは、この城が本当に大石氏の時代からあったのだろうか、
          という点です。中世の城のセオリーからいえば、現在四阿が建っているあたりが舌状の先端にあたり、
          より城の主郭として好まれた地形と思われます。さらにいえば、滝の城址の北東で東川と柳瀬川が
          合流しており、その合流点に突き出た、現在関越道が走るあたりに選地するのが普通ではないかと
          思われてなりません。そこで、あくまで私見ですが、氏照は柳瀬川と東川に囲まれた大きな舌状台地
          全体をして、軍勢の中継駐屯地点と考えていたのではないかと思われます。

           
 本丸に建つ城山神社。
本丸の城址碑。 
 本殿左手の稲荷社。櫓台か。
本丸の堀と土塁。 
 本殿裏の四脚門跡。
四脚門跡と馬出しの間の土橋。 
当時は引橋が架けられていたと考えられています。 
 (おそらく)二の丸のようす。
二の丸の堀と土塁。 
 同上。
三の丸跡のようす。 
 三の丸から堀を隔てて伝物見台を望む。
外郭の伝物見台。 
 外郭北辺の土塁(中央の垣根裏)。


BACK