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人吉城(ひとよし) |
| 別称 : 繊月城、三日月城 | |
| 分類 : 平山城 | |
| 築城者: 相良長頼 | |
| 遺構 : 石垣、堀 | |
| 交通 : JR肥薩線人吉駅徒歩15分 | |
<沿革> 建久九年(1198)、相良長頼が源頼朝の命により人吉荘へ下向した。相良氏は藤原南家流と され、藤原周頼が遠江国相良荘に住したことにはじまる。長頼の父・頼景は、同四年(1193)に 人吉荘と接する多良木荘を与えられていたが、平安時代末期より人吉荘は平清盛の弟・頼盛の 所領となっており、家臣の矢瀬主馬助が原城に拠って統治していた。長頼は主馬助に立ち退き を要求したが拒絶されたため、主馬助を大晦日に誘殺して城を奪った。 翌建久十年(1199)正月三日、長頼は城の改修に着手したが、鍬入れに際し三日月の文様の 入った石が見つかり、これを吉兆として「三日月城」ないし「繊月城」の雅称が生まれたとされる。 これが人吉城のはじまりといわれ、その本丸は近世と同じ位置に置かれたとも、戦国時代までは 原城跡ににあったともいわれる。 元久七年(1205)、長頼は頼朝から人吉荘の地頭に任じられた。下向を命じられてから7年の 歳月が経っていることから、長頼の人吉入りはもともと懲罰・左遷的なものであったとする見方が 強い。その場合は、頼景が源平合戦で平家方に属して戦ったことが理由とされる。また、長頼が 平家追討の任を得たものとする説もあるが、頼盛は平家の都落ちの際に取り残される形で頼朝 に従い、生涯を全うしている。したがって、頼盛の所領を追討対象とすることには疑問が残る。 他方で、本領の相良荘を失ったわけではないため、懲罰とする見方にも異論の余地がある。 長頼は二男・頼氏を多良木荘に、三男・頼俊を人吉荘に配した。以降、前者を上相良家、後者 を下相良家と呼び、上相良家が惣領とされた。しかし、南北朝時代の末ごろになると、下相良家 が上相良家を圧倒するようになった。 文安五年(1448)、若くして家督を継いだ下相良家の相良堯頼に対し、勢力挽回の好機とみた 上相良家の相良頼観・頼仙兄弟が兵を挙げ、人吉城を急襲した。堯頼は薩摩の菱刈氏を頼って 落ちのびたが、まもなく長頼の長男・頼親の子孫である永留相良家の相良長続が、頼観・頼仙 兄弟を駆逐した。長続は堯頼に帰城を促したが、堯頼は応じないまま、同年中に怪我が原因で 死去した(謀殺説有り)。下相良家は長続が相続し、上相良家を滅ぼして両相良氏を統一した。 家中が安定した相良氏は、島津氏と結んで八代へ勢力拡大を図るようになった。 長続の曾孫・長祗の代の大永四年(1524)、従兄弟違いにあたる相良長定が謀叛を起こし、 人吉城を急襲した。長祗は出水を経て水俣城へ逃れたが、長定と結んでいた重臣の犬童氏に 追い詰められ、自害した。ところが、長定は家中の支持を得られず、同六年(1526)には長祗の 庶兄・長隆が挙兵した。長隆は長定を逐って人吉城主となったが、群臣は長隆も認めなかった。 長隆はやむなく人吉を去り、永里城に移った。長隆・長祗兄弟の長兄・長唯は、相良一族の上村 頼興の協力を仰ぎ、頼興は嫡子・頼重(後の晴広)を長唯の養子とすることを条件に、これを受け 入れた。長唯は永里城に長隆を滅ぼし、家督を継いで義滋と改名した。 晴広の子・義陽の代に、三方に石垣をもつ「御館」の建設が始められたことが『嗣誠独集覧』に 記されている。同書によれば、御館の南に溜池が設けられていたとあり、近世の藩主居館と同じ 位置にあったものと推測されている。義陽は天正九年(1981)に島津氏に降伏し、同年の響野原 の戦いで戦死したが、このとき御館は未完成であったとされる。義陽の跡は長男・忠房が継いだ が、同十三年(1585)に早世すると次男の頼房が当主となった。この間も、人吉城の改修工事は 断続的に続けられた。御館がいつできあがったかは不明だが、その完成と前後して城の大手が 東から西へ移されたと考えられている。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際して大垣城に籠っていた頼房は、東軍に寝返り所領を 安堵された。しかし、徳川家に遠慮したためか、継続していた人吉城の改修工事は中断された。 その後、同十二年(1607)より再開され、寛永十六年(1639)に終了した。終了というのは完成に 至る前に再び中止されたからで、これ以降、再々開されることはなかった。 関ヶ原の戦いで寝返りを進言した重臣の犬童頼兄は、人吉藩の石高2万2千石のうち8千石を 知行し、権勢を振った。しかし、2代藩主頼寛は頼兄の専横を疎い幕府へ訴えた。頼兄は津軽へ 流刑となったが、これに不満を募らせた頼兄の一族は、寛永十七年(1640)に人吉城内の頼兄 屋敷(お下屋敷)に立て籠もった。藩兵は屋敷を取り囲み、戦闘の末一族郎党121人が死亡して いる。この事件は、「お下の乱」あるいは相良姓を下賜されていた頼兄の名乗りをとって、「相良 清兵衛事件」と呼ばれる。 文久二年(1862)、寅助火事と呼ばれる大火災が発生し、城内や城下町の大部分を焼失した。 翌年、球磨川沿いの長石垣に、幕府の許可を得て「武者返し」と呼ばれる洋式の石の張り出しが 設けられた。武者返しの名とは裏腹に、その目的は防御というよりも火除けであったといわれる。 明治十年(1877)、西南戦争に際して西郷隆盛らが人吉城跡に立て籠もり、官軍との間で戦闘 となった。これにより、城内の建物は堀合門を残して全焼した。 <手記> 人吉城は球磨川と胸川の合流点に築かれています。鎌倉時代から明治維新まで同じ城を居城 とし続けた大名は、おそらく相良家ぐらいではないかと思います。ただ、上述の通り大手は16世紀 末に移されており、城の中心部についても中世までは原城跡にあったのではないかとみられます (原城の項参照)。 建物は残っていませんが、川沿いに連なる優美な石垣は大きな見どころです。川の合流点から 大手橋までの間には、隅櫓と続塀、そして大手門脇多聞櫓が復元されています。また、唯一移築 現存している堀合門も、なぜか再移築はされず本物を参考に復元されています。 城内の市役所周囲の家臣屋敷群では発掘調査が進められているようで、礎石が示されている 箇所に加え、お下の乱の舞台となった相良清兵衛屋敷跡に人吉城歴史館が建てられています。 この屋敷跡が注目されているのは、井戸水を湛えたとても珍しい地下室が発見されたからです (見学可能)。この地下室の用途は、いまだ明らかになっていません。 藩主屋敷跡は相良神社の境内となっていて、周囲の石垣や堀を残すのみです。そこから有名な 武者返しの石垣を見上げながら球磨川沿いに東進すると、水の手門跡があります。今はその脇に 水の手橋が架かっていますが、かつては球磨川対岸に渡る橋は後述する胸川合流点の大橋しか なく、城内から対岸へはこの水の手門か、さらに東方にある梅花の渡しの船運を利用するしかあり ませんでした。日本三大急流の球磨川に直接架橋することが、いかにリスキーであったかが窺え ます。 水の手門の東の御下門から、山上の本丸・二の丸・三の丸へと登ることができます。3つの曲輪 はよく整備されていて、とくに三の丸は広い芝生の展望台となっています。御殿があったとされる 二の丸には、代わって涼しげな木立が残されています。本丸は、二の丸・三の丸に比べて格段に 狭く、ここには護摩堂などが置かれていたそうです。 いったん御下門まで下りてさらに東へ向かうと、梅花の渡し跡があります。ここから南へ転進する と、両側に清水観音と地蔵院の石垣があります。おそらく、搦手に相当する渡しの筋を守るための 小規模な寺町を形成していたものと思われます。さらに南進すると、途中から「中原城」と呼ばれる 小丘と本丸の間を抜けて新坂に至ります。この間道は人工的に切通した感じになっているので、 かつての中原城は本丸の丘と緩やかにつながっていたものと推測されます。新坂の東には搦手 である原城門跡があり、坂を西へ下ると、藩主屋敷前へ戻ってきます。 さて、地図を見ると、球磨川と胸川の合流点に城を築くのは至極当然な選地のように思えます。 ですが、暴れ川の球磨川沿いの築城は容易ではなく、頼房の時代にはじまる大規模な造成工事 によって、ようやく可能になりました。大橋が架かる中川原は、その東端に巨石群を置いて造られ たもので、この石は製作者村上左近の名を冠して「左近の石」と呼ばれていました(非現存)。この 中川原によって、球磨川の流れを南北に分け、2つの流れにそれぞれ、南からの胸川と北からの 山田川を別々に合流させています。その結果、合流点での水勢が大きく弱められ、河岸への築城 が可能なったのでしょう。城から球磨川対岸へ渡る唯一の橋であった大橋も、この中川原を経由 する2本の橋梁として建設されています。 最後に、人吉城を訪ねたらぜひ立ち寄ってほしいのが、人吉温泉「元湯」です。藩主邸跡のすぐ 向かい(つまり旧城内)にあり、お湯が熱くて素晴らしいうえにとても雰囲気のある共同浴場です。 JR人吉駅裏のくま川鉄道の駅が人吉温泉駅というくらいですから、町中至るところで入れるお湯 なのでしょうが、この元湯は「共同浴場番付」なるものに載るほど由緒があるようです。駐車場も 完備されていたので、思わぬところで名湯にありつくことができました。お城の中でこんなに良い 湯に入れるとは、お殿様でさえ味わったことのない至福だと思います(笑)。 |
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| 球磨川と胸川の合流点から人吉城北西隅を望む。 左から、隅櫓、続塀、大手門脇多聞櫓。 |
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| 大手門跡を望む。 見えている橋の下の石垣に大手橋が乗っていました。 |
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| 家臣屋敷群跡から本丸の丘を望む。 | |
| 家臣屋敷の礎石。 | |
| 対岸から球磨川沿いの石垣を望む。 右端の切れ目が水の手門跡。 左端の切れ目が梅花の渡し跡。 中央の櫓台状石垣が御下門跡。 |
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| 武者返しの石垣。 | |
| 藩主屋敷跡南面の濠と石垣。 | |
| 水の手門跡。 | |
| 堀合門(復元)。 | |
| 御下門跡。 | |
| 二の丸中の御門跡。 | |
| 二の丸から三の丸を望む。 | |
| 二の丸のようす。 | |
| 本丸のようす。 | |
| 梅花の渡し跡。 | |
| 清水観音跡。 | |
| 地蔵院跡。 | |
| 本丸と中原城の間の切通し。 | |