原城(はらの)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 矢瀬主馬助か
 遺構  : 曲輪跡、堀
 交通  : JR肥薩線人吉駅徒歩20分


       <沿革>
           人吉城本丸の東から南へ延びる丘陵は、地元では原城(読みは「はらんじょう」とも)と呼ばれ、
          相良氏入部以前に築かれた城があったと伝えられている。平安時代末期、人吉荘は平清盛の弟
          頼盛の所領とされ、その家臣矢瀬主馬助が治めていた。頼盛は文治二年(1186)に没し、家督は
          子の光盛が継いだが、 主馬助はほとんど独立勢力化したものと推測される。
           建久九年(1198)、工藤氏の分流である相良長頼が、源頼朝の命により遠江国相良荘より人吉
          へ下向した。長頼は主馬助に立ち退きを要求したが、拒絶された。木上城主平川義高の協力を
          得た長頼は、主馬助を大晦日に誘殺し、城を奪った。翌十年(1199)正月三日、早速長頼は城の
          改修を始めたが、鍬入れの際に三日月の文様の入った石が見つかり、これを吉兆として「三日月
          城」ないし「繊月城」の雅称が生まれたとされる。
           この工事により「人吉城」が誕生し、今と同じ位置に本丸が置かれたとされているが、戦国時代
          までは原城跡が本丸であったともいわれる。いずれにせよ、原城址は人吉城に吸収される形で、
          その名を近世まで留めることとなった。

          
       <手記>
           人吉城本丸の南東に「上原城」と呼ばれる区画があり、その北は「中原城」、西は「下原城」と
          呼ばれています。また、中原城の東方に広がる台地は原城町と呼ばれ、原城団地があります。
          一般的には上原城が原城の中心部とされていますが、確証はありません。上原城には顕彰碑か
          なにかが建てられていて、一帯は刈りこまれた草地となっています。ただし、中ほどから藪が酷く
          なり、それ以上先には進めません。東と西の斜面は、明らかに人工的に削られた切岸状の空堀
          となっています。その先にある下原城へも、藪の向こうということで行けませんでした。中原城は
          配水池となっていて、入れません。
           上原城と中原城の間の切通し道沿いに、簡単な説明板が設置されています。ここには、近世
          人吉城の原城門がありました。原城門から西へ下る道は新坂と呼ばれています。
           上原城から堀を挟んだ東には瑞祥寺があります。ここは三方を堀や谷に囲まれた細長い舌状
          台地で、『日本城郭大系』ではここが矢瀬氏の原城跡ではないかと推測しています。先の新坂に
          対応する旧道は瑞祥寺南麓の谷筋の道しかありえず、寺の位置は谷そのものを治めるのにも
          適しているため、たしかにこの説には説得力があります。ただし、谷戸を押さえるという点では、
          JRの線路が走るもう1つ隣の谷筋にも睨みを利かせたいところだと思われ、そう考えるともう少し
          東側の方が都合がよいようにも思われます。いずれにしても、これらは推測に過ぎず、また鎌倉
          時代の城館跡を特定するのは困難でしょう。
           近世人吉城が築かれるまで、大手は東に開いていたとされています。たしかに、治水技術の
          発達していない中世に、暴れ川の球磨川に胸川が合流する西側に大手口を開くことはリスクが
          勝りますし、城の東には大畑を通って加久藤へ抜ける街道が走っています。中世を通じて大手が
          東を向いていたとするならば、今の本丸の位置に主郭を置くメリットはあまりなく、上原城主郭説
          の方が有力なように思います。
           矢瀬氏の原城は原城町および瑞祥寺のどこかにあり、そこから谷ひとつ挟んで西側の上原城
          に、長頼が新しく人吉城を築いたと考えると、すっきり説明がいくように感じられます。

           
 原城址説明板。
上原城のようす。 
 堀ないし土塁跡か。 
上原城東側の空堀。 


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