大垣城(おおがき)
 別称  : 巨鹿城、糜城、牛屋城
 分類  : 平城
 築城者: 竹腰尚綱か
 遺構  : 石垣、総濠
 交通  : JR東海道本線大垣駅下車徒歩10分


       <沿革>
           明応九年(1500)に、土岐氏の家臣竹腰尚綱によって築かれたとされる。また、同じく土岐氏
          家臣の宮川安定が天文四年(1535)に築城したともいわれるが、定かではない。大垣は、江戸
          時代には中山道垂井宿と東海道熱田宿を結ぶ美濃路の宿場でもあり、また古くから水運でも
          栄えた交通の要衝であった。
           その後、斎藤道三に属した西美濃三人衆の1人・氏家直元(卜全)が城を拡張した。直元は、
          永禄十年(1567)に他の三人衆とともに織田信長に寝返ったが、元亀二年(1571)に伊勢長島
          一向一揆との戦いで殿軍を務めて戦死した。
           直元の跡は嫡男直通が継いだ。天正十一年(1583)、直通が病死したため弟の行広が跡を
          襲ったが、同年の賤ヶ岳の戦いの後に美濃三塚1万5千石へ減封され、代わって池田恒興が
          13万石で大垣城に入城した。翌十二年(1584)の小牧・長久手の戦いで、恒興が長男元助と
          ともに戦死すると、二男輝政が家督を継いだ。輝政はまもなく岐阜城に移され、代わって一柳
          直末が3万石で入封した。その後、豊臣秀勝、伊藤祐盛(盛景)と城主が変わり、祐盛のときに
          天守が造営されたといわれる。
           祐盛の子盛正の代の慶長五年(1600)に、関ヶ原の戦いが勃発した。石田三成は大垣城を
          本陣として使用したいと盛正に要請し、盛正は一度は断ったが、結局承諾して城を明け渡し
          退去した。盛正は本戦にも参戦し、敗れて改易された。
           翌慶長六年(1601)、石川康通が5万石で入り、大垣藩が成立した。その後、石川家3代、
          久松松平家2代、岡部家2代、久松松平家1代と城主家は転々とするが、寛永十二年(1635)
          に戸田氏鉄が移封されて以来、明治維新まで戸田家が続いた。
           天守は維新後も破却を免れ、四層四重という忌み字として嫌われたが故に珍しい形態から
          国宝にも指定されたが、太平洋戦争の空襲で焼失した。現在の天守は昭和三十四年(1959)
          に復興された模擬天守である。


       <手記>
           大垣城は関ヶ原の合戦で西軍の本陣ともなった名城ですが、実際に訪れると都市化に呑ま
          れた近世城郭の1つとして落胆を禁じ得ませんでした。惣濠にあたる水門川の流れなど、外郭
          のラインはかなり残っているのですが、城の遺構についてはほとんど失われているといっても
          過言ではありません。天守復興に伴い公園として整備するためか、周囲には位置の不自然な
          城門や石垣が"新設"されていて、むしろ景観を損ねています。
           1周すれば分かりますが、天主閣近辺の本丸の一角を除いて、城地は完全に地ならし・開発
          されてしまっています。ここにかつての浮城の面影を見ることはもはや困難でしょう。
           東側には、大手門跡の石垣が残っているとされているのですが、訪ねてびっくりビルの壁に
          庭石のような石積みが張り付いているだけです。これを「残っている」というのなら、なにも言い
          ますまいといった感じです。。
           恨み節のようになってしまいましたが、とにかく遺構の保存状況については、残念の一言に
          尽きます。天守閣そのものは立派なので、中心部だけでももう少し旧状回復を試みられては
          いかがかと思いました。

           
 復興天守。
本丸石垣の一部。 
 本丸鉄門跡。
東門と丑寅櫓。 
 謎の本丸西門。
戌亥櫓。 
 水之手門跡。
本丸辰巳櫓跡。 
 大手門跡石垣の一部。
 西総門跡と総濠。 


BACK