保々西城(ほぼにし)
 別称  : 朝倉城、保々西村城
 分類  : 平山城
 築城者: 朝倉備前守
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口、土橋、井戸跡
 交通  : 三岐鉄道三岐線北勢中央公園口駅徒歩35分


       <沿革>
           『伊勢名勝志』によると、康正年間(1455〜57)に朝倉備前守詮真が築いたとされる。
          備前守は越前朝倉氏との関連が推測されているが、詳しい出自は不明である。また、
          北勢四十八家に数えられる茂福城の朝倉氏(茂福氏)とも同族といわれる。一般には、
          南東2km弱に位置する市場城との構造的な類似性や完成度の違いなどから、朝倉氏が
          いずれかの時期に市場城から保々西城へ居城を移したものと考えられている。
           備前守の後、保々西の朝倉氏は4代続き、永禄十一年(1568)に織田信長の北伊勢
          侵攻によって、茂福の朝倉氏らと共に攻め滅ぼされたとされる。これにより、保々西城も
          廃城となったものとみられる。


       <手記>
           保々西城へ行くには、何はともあれ県営北勢中央公園を目指します。園内の野球場の
          ほぼ西側を南の峰先へ向かいます。すると、案内の石碑があるので、球児たちを横目に
          薄暗い林の奥へ入っていきます。すると、まもなく城内最後尾の堀と土塁が現れます。
           この堀と土塁は台地を堀切状に横断していますが、浅くて低いため防御力はそれほど
          高いようには思えません。それでも、横矢の折れと喰い違いの虎口を設けるなど工夫が
          凝らされています。
           虎口の先は真っすぐの通路となっていて、両サイドにこれまた低い土塁で仕切られた
          区画が並びます。区画内部は藪で見通しはよくありませんが、いずれも方形を基調とし、
          家臣団等の屋敷群と考えられています。
           屋敷群をぐるっとひと回りするように逆J字型に通路を歩くと、台地の南西角を利用した
          主郭があります。主郭は、それまでの整然とした区割りから一転して、深々とした空堀に
          高々と聳える土塁を擁する、荒々しい様相を呈しています。虎口は北東と南東の2か所に
          開いており、とくに南東の虎口は枡形となっていて厳重です。
           主郭から空堀を挟んだ南東には、城内で最も広いと思われる区画があり、城主の居館
          部とも考えられます。その脇から、谷筋に麓へ下りる道があり、途中には張り出し土塁で
          すぼめられた、門跡とみられる箇所があります。
           低い土塁で囲繞された屋敷群とみられる団地様の区画と、対照的に物々しい主郭部と
          いう組み合わせは、南東の市場城とまったく同じです。保々西城には、主郭の枡形虎口
          や最後尾の堀の横矢折れといった技巧性がより認められることから、市場城より新しい
          時代の築城と推測されています。これだけの遺構がこれだけ良好に残されているという
          のは、まさに眼福といえるでしょう。歴史の表舞台にはほとんど出ることなく滅んだ朝倉氏
          ですが、その最盛期の姿はこうして林の中にひっそりと息づいています。

 保々西城跡入口の石柱。
最後尾の虎口。 
 最後尾の堀と土塁。
最後尾の堀と土塁の横矢折れ。 
 城内の屋敷群の土塁。
同上。 
 同上。
同上。 
 同上。
主郭北東辺の土橋と虎口。 
 北東辺の空堀と土塁。
同じく空堀。 
 北東辺の虎口脇の土塁。
主郭内のようす。 
 同上。 
南東辺の枡形虎口。 
 主郭南東の区画の土塁。
南東隅付近から谷筋に下りる道。 
右手に張り出し土塁があり、門跡か。 


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