放生津城(ほうじょうづ)
 別称  : 放生津館、奈呉城
 分類  : 平城
 築城者: 名越時有
 遺構  : なし
 交通  : 万葉線新湊港線中新湊駅徒歩5分


       <沿革>
           鎌倉時代末期の正応三年(1290)、越中守護となった北条(名越)時有によって、
          守護所として築かれたのがはじまりとされる。元弘三年(1333)、鎌倉幕府滅亡に
          際して、越中にも反幕府勢力が押し寄せ、時有は当初二塚城での防衛を試みるも、
          追い詰められて放生津へと撤退した。まもなく放生津城も大軍に囲まれ、『太平記』
          によれば女子供は舟で沖へ出て次々と入水し、衣が海に沈むのを見届けると、時有
          はじめ男たちも城に火を放って自害したとされる。
           康暦二/天授六年(1380)、畠山基国が越中守護となると、家臣の神保氏が射水・
          婦負2郡の分郡守護代に任じられ、放生津城を居城とした。明応二年(1493)、明応
          の政変により幽閉されていた元将軍足利義材は、京を脱出して畠山氏を頼り、神保
          長誠により放生津に迎えられた。義材は越中滞在時に義尹と改名し、同七年(1498)
          に越前の朝倉氏の下へ移った。
           永正十六年(1519)、長誠の子慶宗は畠山氏からの自立を図り、越中守護の畠山
          尚順は能登守護畠山義総と越後守護代長尾為景の支援のもと、神保氏討伐の兵を
          挙げた。慶宗は一度は撃退に成功するものの、翌十七年(1520)に再び攻撃を受け、
          敗れて自刃した。このとき、放生津城も長尾軍に攻め落とされたとされる。
           神保氏は慶宗の子とされる長職によって再興され、一時は越中国内の最大勢力に
          まで拡大した。放生津城も長職によって再建されたとみられているが、長職の居城は
          増山城や富山城に置かれたため、詳細は定かでない。
           天正十三年(1585)の富山の役により、越中西半は前田利家の領地となった。この
          間も城は存続していたと推測されるが、動向については定かでない。放生津城には
          前田家の城代が置かれたが、江戸時代初期までには廃城となり、跡地には加賀藩
          の蔵屋敷が設けられた。


       <手記>
           放生津城の中心部は、射水市立放生津小学校となっています。北辺の道路沿いに
          城址碑と説明板がありますが、遺構はみられません。ただし発掘調査では、城跡の
          遺物が検出されています。説明板の背後には土塁のような土盛りがみられますが、
          これは遺構ではなくあくまで砂止めのものだそうです。
           地形から見るに、放生津城は要害というより、奈呉ノ浦の水利を押さえる経営上の
          城館であったと推察されます。つい2005年までは、放生津周辺の港町だけで新湊市
          を形成していたくらいですから、古くから栄えていた土地だったのでしょう。流れ公方
          こと足利義稙(義材)が一時身を寄せていたという由緒ある町ですが、今では観光の
          中心は航海練習船「海王丸」にすっかり移っています。

           
 城址碑
説明板。 
 小学校グラウンドの砂止め。
 土塁にも見えますが、遺構ではありません。


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