星ヶ崎城(ほしがさき) | |
別称 : 鏡山城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 鏡氏か | |
遺構 : 石垣、曲輪跡、虎口跡 | |
交通 : JR東海道本線篠原駅徒歩30分 | |
<沿革> 佐々木氏一族鏡氏の居城と伝わる。鏡氏は、源頼朝の挙兵に応じて活躍した佐々木定綱の 次男定重の子久綱にはじまる。鏡久綱は、承久三年(1221)の承久の乱に宮方として参戦し、 尾張で討ち死にした。一般的には、久綱の死により鏡氏は絶えたとされるが、『尊卑文脈』など 一部の史料には、久綱の子孫が続いているように書かれている。 確実なことは、室町時代初期に京極佐々木宗氏の子貞氏が鏡氏を継いだということとされる。 久綱の子孫がこのときまで続いていたとして、久綱流鏡氏がどうなったのかは詳らかでない。 星ヶ崎城東の鏡城主井上氏は、久綱の子孫安定の後裔ともいわれるが、鏡(井上)安定という 人物について史料上からは確認できない。いずれにせよ、鏡氏の本流が定綱系佐々木氏から 京極系佐々木氏に移ったことは、間違いないものと思われる。 貞氏の子のうち、高治と貞佑が鏡氏を称したようだが、その後の系図は明らかでない。『日本 城郭大系』には、鏡陸奥守高規・兵庫頭父子が六角氏に仕えて活躍したという趣旨の記述が あるが、両名がいつごろの人物なのかは詳らかでない。 永禄六年(1563)の観音寺騒動に際し、六角氏に反旗を翻した永原氏を制圧するため、六角 義賢が星ヶ崎城に入ったとされる。これが、星ヶ崎城が歴史の表舞台に登場する唯一のもので あるが、その後の星ヶ崎城や鏡氏については不明である。 <手記> 星ヶ崎城は、鏡山から北にのびる稜線上に築かれており、北端麓には切通し状に旧東山道 が走っています。北西麓の鏡集落は、江戸時代に中山道鏡宿(正式な宿場ではなく合いの宿) が置かれ、さらに鏡氏成立以前に源義経が元服した地といわれています。すなわち、鏡は古く から栄えた交通の要地であり、それを扼する山上に城が築かれたのはほとんど必然ともいえる と思われます。 そのような「必然」に比べて、星ヶ崎城の構造には謎ともいえる点がいくつかみられます。まず 星ヶ崎城の最大の特徴といえるのが、主郭西辺の石垣です。この石垣は長さ数十mにわたって 続く規模の大きなもので、他にも城内のあちらこちらに石垣跡と思しき箇所が見受けられます。 問題なのは、立派な石垣技術に比して、縄張りがお粗末であるということです。主郭の他には、 ほとんど曲輪形成がなされた形跡がみられません。主郭には虎口跡と思われるところもあるの ですが、平入りで工夫がみられず、ここで戦おうという意思が感じられません。 また、城のある峰の前後にも尾根のピークがあり、「戦う城」を意図していたとするなら、これら も城域に含める必要があると思われるのですが、とくに手が加えられているようすはありません。 とくに、先端側の峰は東山道から登って最初のピークであるうえ、古墳であるということから曲輪 形成は比較的容易かつ重要であるにもかかわらず、です。 このような疑問点を総合すると、星ヶ崎城は六角氏系の城郭にたまにみられる、「魅せる」ため の城だったのではないかと推測されます。『近江の山城』では、山岳寺院を利用した城であると いう可能性を示していますが、確証はありません。 ちなみに、『山城』では登城路について北麓の旧中山道沿いからと北東麓の西光寺跡からの 2つを挙げており、私は前者から登って後者から降りましたが、前者はまったくおすすめしません。 というより、城址についての説明板は立っていますが、そこから先は道がなく斜面を直登しなけ ればなりません。この西光寺跡は、山麓の高台で鏡集落を見下ろす位置にあり、根小屋を築く のにふさわしく、鏡氏の平時の居館跡ではないかと考えています。 |
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星ヶ崎城址碑と主郭のようす。 | |
主郭北側下の副郭(?)のようす。 | |
主郭の石垣。 | |
主郭石垣と虎口跡か。 | |
主郭南側石垣と虎口跡か。 | |
城内の石垣跡。 | |
同上。 | |
西光寺跡。居館址か。 |