藤沢御殿(ふじさわ)
 別称  : 藤沢陣屋
 分類  : 平城
 築城者: 徳川家康
 遺構  : なし
 交通  : 小田急江ノ島線藤沢本町駅徒歩10分


       <沿革>
           徳川家康の宿舎として築かれ、後には徳川将軍の上洛時に用いられたいわゆる御茶屋御殿
          の1つである。同様の性格をもつ中原街道の中原御殿が、慶長元年(1596)ごろに造営されて
          いることから、藤沢御殿も同じころに築かれたものと推測されている。記録上は、同五年(1600)
          に家康が藤沢に止宿していることから、このときまでには存在していたものとみられている。
           徳川将軍の上洛は、3代家光による寛永十一年(1634)のものを最後に14代家茂まで途絶え、
          御茶屋御殿は役目を終えて逐次解体されていった。藤沢御殿の廃止時期は詳らかでないが、
          明暦三年(1657)の明暦の大火における復興資材として、江戸周辺の陣屋や御殿施設が多く
          取り壊されていることから、藤沢御殿もこれに伴って廃された可能性は高い。『新編相模国風土
          記稿』によれば、御殿跡の南に小長谷勘左衛門なる人物の「陣屋」があり、貞享年間(1684〜
          88)に廃されたとある。この陣屋は、御殿の管理のためのものと考えられている。したがって、
          遅くとも貞享年間までには、藤沢御殿も廃館となっていたものと推測される。
 
       <手記>
           藤沢御殿のあったとされる藤沢1丁目は、旧東海道藤沢宿の中心部にあたり、近年の街道
          歩きブームとも相まって宿場関連の史跡がそこかしこで紹介されています。しかし、藤沢御殿
          についてはまったく忘れ去られているようで、案内や説明などは見当たりませんでした。
           宿場の旧絵図などによれば、御殿跡は妙善寺の北東、白旗神社の南東に位置し、東に境川
          が流れていたとされています。寺や神社の位置に変わりがなければ、これらの記述に合致する
          場所は、藤沢市民病院と藤沢公民館の中間あたり、北は白旗川、東は境川に面したつくりに
          なっていたものと推測されます。市民病院の西隣には、字名を冠した御殿辺公園がありますが、
          御殿の脇という意味とみられ、比定地からはやや外れています。
           周辺は古くからの住宅地のようで、遺構などは望むべくもないようです。御殿を偲ぶものとして
          は、市民病院の南東隅付近で白旗川を渡る橋には陣屋橋、妙善寺門前の道が境川を渡る橋に
          は御殿橋と名付けられています。
           発掘調査などはなかなか難しいとは思いますが、せっかく旧宿場として町おこしを図っている
          のですから、御殿跡についても何らかの解説を設けても良いのではないかなと感じます。

           
 陣屋橋。
御殿橋。 
 御殿南西に位置するとされる妙善寺。
御殿北西に位置するとされれる白旗神社。 
 御殿辺公園。


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