福江城(ふくえ) | |
別称 : 石田城、石田陣屋 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 五島盛成 | |
遺構 : 門、塀、石垣、堀、土塁、庭園 | |
交通 : 福江港ターミナルより徒歩10分 | |
<沿革> 慶長十九年(1614)、福江藩主五島氏の居城である江川城が焼失し、寛永十四年 (1637)に2代藩主五島盛利によって石田陣屋が建造された。五島家は幕府に新規 築城をたびたび願い出たが、許可されることなく200年以上が経過した。 幕末に入った嘉永二年(1849)、外国船に対する海防を理由として、10代藩主五島 盛成のときにようやく築城の許可が下りた。財政難もあり工事は難航し、14年の歳月 を経て文久二年(1863)に完成した。この間に盛成は隠居し、三男盛徳が11代藩主 となった。しかし、築城からわずか4年後の慶応三年(1867)に明治維新を迎え、福江 城は日本最後の近世城郭の1つとなった。 <手記> 福江城は石田陣屋を拡張する形で築城されたことから石田城とも呼ばれ、長崎県 指定史跡としてはそちらで登録されています。今日では市街のほぼ中央に位置して いますが、かつては全面を海水に囲まれた海城でした。 本丸は県立五島高校となっており、濠と石垣が3分の2ほど残っています。校門と なっている蹴出門は、現存している2つの城門の1つで、裏門桝形の一の門でした。 もう1つの現存城門は北西端の搦手門で、福江城を代表する景色としてよく写真に 用いられます。 搦手門を抜けた城内には、国の名勝に指定されている「五島氏庭園」があります。 風流大名でもあった盛成が隠居所として造営したもので、近年まで五島家の子孫が 居住していたそうです。現地では「心字が池庭園」として整備・公開されていて、名称 の由来となった池を中心に、実に風情ある庭園と屋敷が残っています。とくに、樹齢 800年といわれる池端のクスノキの巨木は雄々しく、城が築かれる前からあったのだ と思うと灌漑深いものがります。入園は有料ですが、受付の屋敷玄関には「続日本 百名城」のスタンプがあり、係員の方が「スタンプだけ押していく人が結構いるんです」 と半ば嘆いていました。本当に城を愛するなら、保存・運営のお金を落としていくこと も重要と知るべしです。 二の丸には城郭風の歴史資料館があり、ジオラマなどで往時の姿をうかがい知る ことができます。二の丸東側の水濠は、当時はすでに海だったところで、今も干満に 合わせて水位が上下します。このほか、長崎地方裁判所五島支部の東辺に土塁が 残っていて、その外側は海だったものと思われます。 また、城外ではありますが、港に突き出て立つ「常灯鼻」も、築城に先立って建造 された重要な歴史遺構です。灯台兼防波堤として造られたもので、今も石造の土台 から灯篭までしっかり残っています。さらに、反対側の山の手にある「武家屋敷通り」 には、石垣塀の重厚な屋敷が続いています。塀の上には小石がかまぼこ型に積み 上げられていますが。これは「こぼれ石」といって、忍びなど侵入者が塀を乗り越え ようとすると、石が崩れて音がするという仕掛けだそうです。 |
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搦手門。福江城を代表する風景。 | |
五島高校の入り口となっている本丸虎口と石橋。 | |
本丸隅の石垣と濠。 | |
同じく本丸の虎口。 学校の裏門ですが、当時はこちらが本丸大手だったようです。 |
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蹴出門。 | |
二の丸東辺の石垣と濠。 当時は濠ではなくすでに海でした。 |
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同じ場所を干潮時に。 | |
御番門(表門)跡。 | |
搦手門脇西辺の石垣と堀跡。 | |
裁判所脇の土塁。 | |
常灯鼻。 | |
五島氏庭園(心字が池庭園)。 緑豊かな大木は樹齢800年のクスノキ。 |
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武家屋敷通り。 |