福沢城(ふくざわ)
 別称  : 福沢館
 分類  : 平山城
 築城者: 古内主膳
 遺構  : 堀、土塁
 交通  : 市営地下鉄泉中央駅よりバス
       「福沢入口」バス停下車徒歩3分


       <沿革>
           古内近江守長時の弟古内主膳によって築かれたとされる。長時は国分盛氏の叔父で
          国分胤実の子ともいわれるが、胤実の実在には疑問がもたれているため、詳細は不明
          である。
           主膳の子孫にあたる主膳実綱のころ、主筋の国分盛重は甥の伊達政宗に服属した。
          慶長元年(1596)、盛重は伊達家を出奔し、盛重の末子四郎は逃げ遅れて福沢城下に
          匿われた。四郎は、成人すると実綱の養子となって、主膳重広(廣)と名乗った。重広は
          伊達忠宗に仕え、岩沼に1万4千余石を得た。また、実綱の実子古内伊賀義実は、宮崎
          古内氏の祖となった。
           これらの話から、福沢城は一国一城令まで存続したものと思われる。


       <手記>
           福沢城は、七北田川と西田中川の合流点に望む河岸の先端にあり、対岸の小角城
          セットで古内氏の本貫地を形成していたものと考えられます。系譜上は小角城の古内氏
          が本流と思われますが、重広の出世により福沢城の古内氏の方が格段に繁栄したよう
          です。
           福沢城址には、現在とくに城跡を示すようなものはありません。城の先端付近は畑地
          になっています。その付け根には、堀切道と思われる崖下へ通じじる道があります。また
          城の河岸に沿うように、水濠状の水路や田がめぐっています。さらに、城の先端には麓へ
          降りる、これまた堀切道と思われる人工の通路が見受けられます。
           これらが本当に遺構かどうかは学術調査が必要でしょうが、おおむね城からの転用で
          あることは間違いないものと思われます。


           
 福沢城址を南側から望む。
城址先端付近のようす。 
 城址先端の堀切道。
城址付け根の堀切道。 


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