中津森館(なかつもり)
 別称  : 金井館、小山田氏館
 分類  : 平山城
 築城者: 小山田氏
 遺構  : 堀跡
 交通  : 富士急行都留市駅徒歩20分


       <沿革>
           郡内小山田氏の初期の居館である。小山田氏は、坂東八平氏の1つ秩父氏の流れを汲む
          小山田有重を祖とするとされる。有重は武蔵国小山田荘に小山田城を築いて本拠としていた
          が、元久二年(1205)の畠山重忠の乱に巻き込まれて一族は没落した。乱を逃れた一族が
          甲斐に根付き郡内小山田氏となったとされるが、その経緯は明らかでない。また、鎌倉時代
          初期に都留郡田原郷を領していたともいわれるが確証はない。
           小山田氏がいつごろ中津森館を築いたのかも不明である。郡内小山田氏の史料上の初出
          は、『妙法寺記(勝山記)』の応永元年(1394)の小山田信澄に関するものである。信澄は、
          明徳年間(1390〜94)に館背後の桂林寺を創建したと伝わる。桂林寺脇には叶が池という
          水源があり、寺が管理を任されていたということから、信澄の代にすでに中津森に館が構え
          られていたとも考えられるが、確証はない。このころから、小山田氏は甲斐守護の武田氏と
          縁戚関係をもつようになったとみられる。16世紀初頭の武田氏の内紛や、駿河の今川氏、
          相模の北条氏との争いのなかで、武田氏にとって小山田氏の重要性は増していったと思わ
          れる。大永元年(1521)には、武田信虎が「中津森」を訪ねている。したがって、遅くともこの
          ときまでには、中津森館が居館と定められていたとみられる。
           『妙法寺記』の享禄二年(1529)の項には、小山田信有(越中守)をして「中津森殿」とある。
          同じく『妙法寺記』によれば、翌三年(1530)に「中津森御所」が火災により焼失した。信有は
          新たな居館を谷村に建設することとし、享禄五/天文元年(1532)に谷村館へ移った。これ
          により、中津森館は廃されたものと推測される。


       <手記>
           中津森館は、都留市街から桂川の支流大幡川を少し遡った金井地区にあります。金井と
          いう地名は、桂林寺の「叶が池」にちなんだものといわれています。桂林寺と用津院の中間
          付近が館跡とされていますが、正確な位置や縄張り等については不明です。館の西から南
          にかけて沢が流れていて、また東側から用津院裏手にかけて、堀を兼ねていたと思われる
          沢谷戸があります。
           館の前面には、用津院の裏山となっている小高い丘があり、館は前方の丘と後方の山に
          挟まれ、眺望がまったく利かないという少々風変わりな立地にあります。おそらく丘には物見
          の施設があったと思わレますが、墓地化が進み遺構等については明らかではありません。
           館跡も畑地化・宅地化により、往時を偲ぶのは困難です。桂林寺境内の叶が池の説明や
          小山田氏顕彰碑に、館があったことを示す文言がみられるのみです。

           
 桂林寺前から中津森館跡を望む。
館跡東側の堀を兼ねた沢谷戸。 
 館前面の丘。右手の建物は用津院。
桂林寺内にある叶が池。 
 桂林寺境内の小山田氏顕彰碑。
 中津森館についても少し触れられています。
桂林寺本堂。 


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