布施氏館(ふせし) | |
別称 : 布施三河守康貞屋敷、吉沢館 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 布施康貞 | |
遺構 : 土塁、堀、長屋門 | |
交通 : 小田急線秦野駅またはJR東海道線平塚駅よりバス 「山の神」バス停下車徒歩10分 |
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<沿革> 『新編相模国風土記稿』下吉沢村の項に、布施三河守康貞の居蹟があると記されて いる。布施康貞の名は『小田原衆所領役帳』にはないが、今も布施氏が居住している ことから、古くからの布施氏の館と考えられている。康貞開基と伝わる同じく下吉沢の 松岩寺には、康貞について、文亀二年(1502)に山城から移り住んで北条早雲(伊勢 宗瑞)に従い、永禄七年(1564)に死去したと伝えられている。 康貞の子とされる弾正左衛門康則は、小田原衆に名を連ねていて、実在が確認され ている。永禄十一年(1568)には蒲原城の城将に任じられ当時は佐渡守康則を称して いた。また康則の他に、喜三や御馬廻衆布施蔵人祐なる一族の者がいる。 その後の布施氏の動向は定かでないが、康貞が移住した文亀二年から今日に至る まで、布施氏の館は約500年にわたり継続して使用されてきたものと推測される。 <手記> 布施氏館は、不動川上流の支脈の谷戸の奥、背後に峰の頸部を控えた窪地にあり ます。南のみ口の開いた狭隘な谷筋ですが、東西に走る金目道や南北に走る平塚道 を指呼の間に押さえることのできる要地にあります。 布施康貞がやってきたという文亀二年は、北条氏と山内上杉氏の対立が顕在化した 立河原の戦いの2年前にあたります。吉沢は扇谷上杉方の重臣三浦道寸の岡崎城に 対する最前線に位置し、布施氏が重要な使命を帯びていたことが拝察されます。 館は、峰に面していない三方を土塁と堀で囲ったもので、堀も土塁も断続的に残って います。ただ、なんといっても最も目につくのは長屋門です。後北条氏時代そのままと いうわけではないでしょうが、中世の館跡に長屋門が残っているというのは稀有なこと です。門前には説明板が設置されています。 |
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布施氏館長屋門。 | |
長屋門脇の堀跡。 | |
北辺の土塁(藪の中)。 | |
南辺の堀跡を利用したビニールハウス。 |