岡崎城(おかざき) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 岡崎氏か | |
遺構 : 曲輪跡、堀、虎口 | |
交通 : 小田急線伊勢原駅よりバス 「岡崎城址入口」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 築城の経緯は明らかでない。近年まで、平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した 岡崎義実の城と伝えられてきた。しかし今日では、義実の館は岡崎城の南の岡崎神社 周辺にあったと考えられている。義実は三浦義明の弟で、岡崎に住して岡崎氏を称した。 源頼朝の挙兵時から付き従った鎌倉幕府創設の功臣だが、孫の実忠の代の建暦三年 (1213)に、岡崎氏は和田合戦に巻き込まれて滅亡した。 岡崎城が史料に登場するのは15世紀に入ってからである。『鎌倉大草子』に康正二年 (1456)のこととして、「上杉方にも三浦介義同は三浦より起て相州岡崎の城を取 近郷を 押領す」とある。この前年には、足利成氏と両上杉氏との間で享徳の乱が勃発しており、 上杉方の巻き返しに遭った成氏は古河へ本拠を移していた。三浦氏は上杉氏に属して おり、同時期に同じく上杉氏麾下の大森安楽斎(頼春)が、「小田原の城をとり立 近郷を 押領」したとある。なお当時の三浦氏当主は時高であり、義同は時高の養子で扇谷上杉 (三浦)高救の子である。義同の生年は明らかでないが、このころはまだ少年であったと みられており、『日本城郭大系』では岡崎城奪取を時高によるものとしている。 時高に実子高教が生まれると、高救・義同父子との関係は悪化した。高救が実兄上杉 定正による太田道灌暗殺に乗じて扇谷上杉氏の家督を継ごうとすると、時高は激怒して 父子を追放した。高救は安房へ落ち延び、義同は大森氏を頼った。 明応三年(1494)、出家して道寸と号していた義同は、大森氏の支援を受けて時高・ 高教父子を滅ぼし三浦氏を継承した。道寸の三浦氏継承については、時高父子を攻撃 して自害に追い込んだという通説に対し、時高・定正死後の混乱に乗じた流動的なもの であったとする異説もある。道寸は子の義意を当主として新井城に置き、自身は岡崎城 に住した。 小田原城の大森藤頼が北条早雲(伊勢宗瑞)に逐われると、三浦氏も北条氏と対立 するようになった。永正九年(1512)、北条軍の猛攻により岡崎城は落城し、道寸は弟 道香の拠る住吉城へと退いた。岡崎城はその後北条氏によって廃されたと思われるが、 廃城時期は不明である。 <手記> 無量寺の南に細長く伸びた丘陵が岡崎城址です。北を除く三方が崖で、周囲はかつて 西海地土腐(さいかいちどぶ)と呼ばれる湿地帯だったといわれています。扇谷上杉氏の 根拠地糟屋荘にもほど近く、同氏との連携において重要な意味をもっていたと推測され ます。 細長い峰の上に3つの郭が連郭式に並び、南から南郭・中郭・北郭と呼ばれています。 各郭間には空堀が設けられ、ゾウリムシ型の北郭は四周すべてが堀で囲まれています。 北郭の東には無量寺があり、境内はやや広い曲輪となっていたとみられています。おそ らくは居館部だったのでしょう。北郭の北西にも曲輪があり、この郭と北郭の間が虎口状 に開いています。各曲輪の独立性は高く、堅固な城であったと推測されますが、構造は さほど複雑ではなく、北条早雲による攻略からそれほど時は下らない間に廃されたものと 思われます。 岡崎城址は、地図にも載っていてバス停の名称にもなっているなどアピール度の高い 城跡ですが、その割には無量寺の説明板と小さな石碑の他には現地に何も設置されて いません。本城域も北郭が畑となっているほかは、ほとんど雑木林となっています。 |
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岡崎城址遠望。 | |
無量寺の説明板と石碑。 | |
無量寺郭(左)と北郭(右)、並びにその間の空堀。 | |
北郭と中郭の間の空堀。 | |
中郭のようす。 | |
中郭と南郭の間の空堀。 | |
南郭のようす。 |