二曲城(ふとげ)
 別称  : 府峠城
 分類  : 山城
 築城者: 二曲右京進
 遺構  : 曲輪、石塁、土塁、堀
 交通  : JR北陸本線小松駅よりバス、
       「出合」下車徒歩10分


       <沿革>
           土豪二曲右京進によって築かれたとされるが、二曲氏の出自や築城年代に
          ついては定かでない。右京進は、享禄四年(1531)の享禄の錯乱(大小一揆)
          に際して、賀州三ヶ寺と対立する本願寺方の超勝寺・本覚寺に属して戦ったと
          されるため、二曲城はそれ以前に築かれていたものと推測される。
           天正元年(1573)ごろ、本願寺顕如の意を受けた鈴木出羽守(重泰)が白山
          麓山内惣庄に下向し鳥越城を築くと、二曲城はその支城となった。出羽守は
          二曲城下にあった二曲氏の屋敷を居館としたとされるが、二曲氏自体の動向
          については定かでない。
           天正八年(1580)、織田信長配下の柴田勝家に攻められ、鳥越城と二曲城
          は落城した。『信長公記』によれば、鈴木一族はじめ19人の一向宗指導者が
          殺害され、その首が安土に送られた。そのなかに、出羽守の子として右京進
          の名があるが、二曲右京進と関連があるのかは不明である。二曲城には、
          織田家臣毛利九郎兵衛が城将として入れられた。
           翌天正九年(1581)、白山麓一向門徒が再び蜂起し、「府峠」にあった勝家
          の兵300人が討ち果たされたことが『信長公記』に記されている。一度は鎮圧
          されたものの、翌十年(1582)に白山麓門徒が鳥越・二曲両城を奪還した。
          同年三月、佐久間盛政率いる織田軍によって両城は攻め落とされ、300名余
          の門徒が磔に処された。これにより加賀一向一揆は完全に潰え、鳥越・二曲
          両城も廃城とされたものとみられる。


       <手記>
           二曲城は大日川を背にした丘陵突端の城で、対岸には鳥越城があります。
          川と平野に囲まれた鳥越城の方が城を築くのに向いているように見えますが、
          鳥越の城山は山上部が広いので、土豪レベルの砦としては二曲城くらいの
          規模がせいぜいなのかもしれません。
           鳥越城の「附」として国史跡に指定されていることから、さほど大きくはない
          城でありながら、しっかり発掘調査が行われているのが二曲城の最大の魅力
          といえます。麓には道の駅があるので、車があれば訪城も楽々です。登城口
          周辺は「殿様屋敷」と呼ばれ、城主の館あったところとされています。
           城は大きく5つの曲輪から成っており、主郭から四の郭までぐるっと1周する
          見学コースが整っています。五の郭はひとつ上手のピークにあり、出城のよう
          に独立しています。
           それぞれの曲輪はさほど広くはありませんが、建物や井戸などの跡が検出
          されています。とくに主郭には櫓や石敷路もあったとされ、土豪の詰城にとど
          まらない造作が施されていたことがうかがえます。
           四の郭については鞍部を均した削平地で、蔵があったとされることから曲輪
          というよりは貯蔵スペースのように使用されていたものとみられます。曲輪の
          谷下側は石塁で土留めがされており、寺社勢力らしい技術が垣間見られる
          のも特徴といえるでしょう。


           
 鳥越城跡から二曲城跡を望む。
字殿様屋敷の登城口。 
 三の郭の土塁を望む。
三の郭下の堀切跡。 
 三の郭。
二の郭下の堀切。 
 二の郭。
主郭のようす。 
 同上。
主郭から鳥越城跡を望む。 
 四の郭。
四の郭下の石塁。 


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