鳥越城(とりごえ)
 別称  : 別宮城
 分類  : 山城
 築城者: 鈴木出羽守
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : JR北陸本線小松駅よりバス、
       「三坂」下車徒歩15分


       <沿革>
           天正元年(1573)ごろ、白山麓山内惣庄の本願寺門徒を糾合するため、石山本願寺
          から派遣された鈴木出羽守(重泰)によって築かれたとされる。出羽守は紀伊の雑賀
          鈴木氏の一族とされるが、詳しい系譜は定かでない。
           天正八年(1580)、織田信長配下の柴田勝家によって鳥越城は攻め落とされ、重泰
          はじめ指導者19名の首が安土城へと送られた。鳥越城には、吉原次郎兵衛が城将と
          して入れられた。
           翌天正九年(1581)、加賀一向一揆の残党が鳥越城と二曲城を奪還した。一度は
          鎮圧されたものの、翌十年(1582)に再び蜂起し、2城を拠点に抵抗を試みた。しかし、
          佐久間盛政率いる織田軍によって城は攻め落とされ、門徒300人が磔刑に処されるに
          及び、加賀一向一揆は完全に終焉を迎えた。周辺7か村は3年にわたり人も住めない
          荒野となったといわれ、鳥越城も破城されたものとみられる。


       <手記>
           鳥越城は手取川と大日川の合流点て前に細長く伸びる丘陵上に位置しています。
          城を築くのにおあつらえ向きの山に見えますが、実際には山上部が広大で斜面も急
          とはいえず、また川に接しているのもほんの一部と、要害地形とはいいきれません。
          もともとの土豪の居城が二曲城にあったというのもむべなるかなといった感じです。
           西麓から主城域入口まで林道が伸びていて、車があれば難なく見学ができます。
          主郭の南に中の丸と二の丸、北に堀切を隔てて後二の丸を配置、本丸と中の丸の
          間は出枡形になっていて、2つの門と石積みが復元されています。また、本丸はじめ
          城内はいたるところ建物跡が地表復元されているほか、中の丸にも門や建物、木柵
          が建てられています。復元建物の信憑性はともかく、戦国末期の拠点城の雰囲気が
          伝わってきます。
           後二の丸から空堀と谷を隔てた支峰には後三の丸がありますが、ここは発掘調査
          がまだなされていないのか、史跡公園化されている本丸周辺に対して木立のままに
          なっています。ふとここで戻ろうとすると、行く手に猿の一団が現れ、こちらを窺いつつ
          餌を探していました。猿は鹿のように逃げてくれないので、何とか距離を保ちながら、
          恐る恐る脇を抜けて離れました。
           全体的にみれば、一向宗門徒が寄り集まって立て籠もる城としては十分な大きさ
          があるようには見えず、櫓や建物の多さから、どちらかというと白山麓山内衆の精神
          的な象徴としての意味合いが大きいようにも思われます。また、最終的な縄張りが
          が定まったのは織田氏の占有時代でしょうが、基本的には石山本願寺の意を受けた
          鈴木氏のころのものを踏襲していると思われ、本願寺の指導による築城形態を今に
          伝える貴重な遺構といえるでしょう。
           

           
 鳥越城跡遠望。
本丸枡形復元一の門と石積み。 
 同じく本丸門(二の門)。
本丸のようす。 
 同上。
本丸から堀切を隔てて後二の丸を俯瞰。 
 本丸西側の削平地。
中の丸を俯瞰。 
 中の丸門。
中の丸の空堀。 
 二の丸のようす。
後二の丸下の空堀。 
 三の丸下のあやめが池
三の丸のようす。 


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