要害山城(ようがいさん) 付百間築地(ひゃっけんついじ) |
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別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 高山氏 | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、堀 | |
交通 : JR八高線群馬藤岡駅よりバス 「金井郵便局前」バス停下車徒歩20分 |
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<沿革> 在地領主高山氏の居城とされる。高山氏は、坂東八平氏の1つ秩父氏の流れを汲み、 秩父重綱の三男重遠が武蔵国高山邑(現在の飯能市とされる)に住したことにはじまる とされる。重遠の代に上野国緑野郡に移り、いわゆる高山党を形成したとされる。ただし、 高山氏の初期の本拠地は、高山山系を挟んだ南東側の神流川水系一帯であったとされ、 鏑川水系である鮎川に面した要害山城がいつごろ築かれたのかは不明である。 山内上杉氏が上野守護および関東管領に補任されると、高山氏はこれに従った。上杉 氏の居城として平井城が築城・整備された15世紀中ごろには、要害山城もその支え城と して築かれていたものと推測される。 天文二十一年(1552)、山内上杉憲政が伸長する北条氏康の圧力に抗しきれず、城を 捨てて越後の長尾景虎を頼ると、高山氏は北条氏に降った。永禄三年(1560)に景虎が 憲政の求めに応じて関東へ進軍すると、高山氏は旧主のもとへ参じた。このときに編纂 された『関東幕注文』には高山山城守の名があり、『高山氏系図』によれば、この山城守 は諱を行重といい、景虎の父為景に滅ぼされた越後守護上杉房能の遺児とされる。 永禄九年(1566)、武田信玄が上州中部へ侵攻すると、高山氏は信玄に従った。『日本 城郭大系』によれば、信玄の命により要害山城の南に「保塁」が築かれたとされる。天正 十年(1582)に武田氏が織田信長によって滅ぼされると、高山氏は信長家臣の滝川一益 に従属したが、同年中に本能寺の変が起きると、北条氏に降った。 天正十八年(1590)の小田原の役で北条氏が滅ぶと、高山氏も没落した。要害山城も、 このときまでには廃城となったと考えられるが、正確な廃城年は不明である。 <手記> 要害山城は、南の主峰上にある天屋城や北麓に位置する百間築地と合わせて、一般に 高山城と総称されます。ですが、私のみたところ天屋城と、要害山城・百間築地の間には 立地・構造・年代の面からみて断絶があると考えています。したがって、ここでは後者2つを 高山城から独立させて別項として扱うことにします。 現在、百間築地の北東隣には温泉施設があります。施設自体は城域からギリギリ外れ ているのですが、施設へ通じる道路が、百間築地内を通過しています。この道路が直角に カーブするポイントから、要害山へと登る道が延びています。しばらく進むと、突然目の前に 豪壮な空堀が現れます。この空堀は、主城域をぐるっと囲っていて、1か所だけ土橋として 開かれ、奥へとつながっています。その先は、2〜3段の削平地を経て主郭へと至ります。 主郭には小さな祠があります。主郭の南は、主峰へと続く細尾根となっています。普通は、 ここに堀切を設けて後背の備えとするところですが、明確な堀切遺構は見受けられません。 1か所、竪堀のような堀底道のような切れ込みがありましたが、稜線までは達しておらず、 城の遺構なのかは不明です。 登山口の直角カーブ一帯は根小屋跡のようで、人工の切岸跡と思われる段差が見受け られます。温泉施設から道路を挟んだ西側の尾根先あたりを狭義の百間築地と呼ぶようで、 根元の方は造成により均されてしまっていますが、藪となっている先端付近には上下2段 の削平地と堀跡が認められます。 全体の感想として、要害山城と百間築地は天屋城に比べて防衛能力が劣り、使用年代 も幾分古いものであるように思います。私見としては、要害山城は高山氏が自前で築いた (あるいは上杉氏の指導で築かれた)詰城であり、それに対して天屋城は、武田氏の進出 後に同氏の指導によって築かれた、北条氏との境目の拠点だったのではないかと考えて います。 |
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要害山城址遠望(手前右側のピーク)。 | |
要害山城の空堀。 | |
同上。 | |
空堀にかかる土橋。 | |
主城域の腰曲輪。 | |
主郭のようす。 | |
尾根筋の堀跡か。 | |
百間築地の堀跡と思しき箇所。 | |
同上。 | |
百間築地尾根先端付近の2段削平地の間の切岸。 | |
百間築地周辺の根小屋跡と思しき切岸。 |