高山城(たかやま) | |
別称 : 天屋城、日野金井城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 武田信玄か | |
遺構 : 曲輪跡、虎口跡、堀 | |
交通 : JR八高線群馬藤岡駅よりバス 「金井郵便局前」バス停下車徒歩40分 |
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<沿革> 高山城とは、一般には天屋城・要害山城・百間築地の3つの総称である。このうち後者の 2つは、在地領主高山氏の居城ないし平井城の支城とみられるが、正確な築城年代は定か でない。 永禄九年(1566)、高山氏は武田信玄に降ったが、『日本城郭大系』によれば、武田氏と 北条氏が戦った同十一年(1568)ごろに、「南の堡塁」が築かれたとされる。これが天屋城 を指すものと推測されるが、確証はない。 廃城時期も不明だが、遅くとも天正十八年(1590)の北条氏の滅亡をもって廃されたもの と考えられる。 <手記> 高山城は、上記の通り3つの部分の総称です。管見のところ、これら3つの部分について、 築城主や築城年代の違いという点はほとんど看過されているように見受けられますが、私は 前述の通り、天屋城とその他2つの間には立地・構造・年代の面からみて断絶があると考え ています。そこで、ここでは天屋城のみを狭義の高山城として扱うことにします。 天屋城は、高山山系の半独立峰上に位置しています。北面を除いて、三方は現在ゴルフ 場となっています。したがって、この方面からの侵入は問題があるため、北方から登らざるを 得ません。私は、要害山城から尾根伝いに斜面に取りついたのですが、道らしきものは全く 見当たらず、木の幹にしがみつきながらの完全直登になりました。「儀一の城館旅」管理人 の儀一さまとご一緒させていただいたのですが、1人だったら途中で心が折れていたと思い ます。 そのような苦労も、山上の尾根筋に到達すると、一気に報われました。天屋城は、北端の 頂上に主城域を形成し、その南の尾根筋には幾条もの堀切を穿っています。この堀切群は、 いずれも良好に残っており、とても見ごたえがあります。北に行くにつれて、岩盤の露出が 激しくなるのか、強引に岩を削ったような堀切が見受けられるようになります。中には、数十 センチの幅を開けて巨大な一枚岩が向かい合う岩盤の堀切があり、これが自然のものなの か人工のものか、そもそも防御設備なのかは不明ですが、驚嘆させられます。ただ、堀切の 豪壮さと裏腹に、堀切間の尾根筋には曲輪形成のようすがみられず、ほとんど自然地形と なっています。 主城域は、大きく分けて主郭とその下2〜3段の帯曲輪から成っています。主郭東端には、 はっきりと虎口の跡が見受けられ、貴重な遺構といえます。主城域の東には、麓に向かって 小さな腰曲輪群が続いており、その一番上のものには、やはりはっきりとした虎口跡があり ます。 天屋城主峰の西に延びる支尾根にも城域が広がっているようですが、現在こちらは360度 すっぽりゴルフコースに囲まれているため、通常では探索は難しいものと思われます。 天屋城について、北麓の要害山城や百間築地との間に断絶があると書きましたが、一番 の違いは規模と構造です。要害山城と百間築地は、それぞれ小規模な曲輪が3つ前後ほど しかなく、少ない兵で守ることを想定したつくりとなっているのに対し、天屋城は主城域だけ でも結構な広さがあり、堀切間の造成されていない尾根空間も兵の駐留スペースに含めると、 とても在地領主の手におえる規模ではありません。また、要害山城には認められない堀切 が、天屋城では多用されているという点も、両者の差異として際立っています。したがって、 両城は異なる築城主によって異なる年代に築かれたとみるのが、妥当ではないかと個人的 には考えています。 |
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百間築地周辺から天屋城山を望む。 | |
主郭のようす。 | |
主郭の虎口跡。 | |
主郭下の帯曲輪と主郭の切岸。 | |
主郭下帯曲輪から東下の腰曲輪を望む。 | |
腰曲輪の虎口跡。 | |
主郭南側1条目の堀切。 | |
同2条目の堀切。 | |
同3条目の堀切。 | |
同4条目か?天然岩の堀切。 | |
同5条目と6条目の2条堀切。 | |
南端のものと思われる7条目の堀切。 |