市田氏館(いちだし)
 別称  : 市田館
 分類  : 平城
 築城者: 市田氏
 遺構  : 不詳
 交通  : 秩父鉄道上熊谷駅よりバス
       「下久下」バス停下車


       <沿革>
           在地領主市田氏の居館跡とされる。市田氏は、私市党(武蔵七党に数えられることも
          ある)庶流の久下氏の分流とされ、『私市党系図』によれば久下重家の次男次郎保則
          にはじまるとされる。同系図によれば、重家の嫡男則氏の孫が、熊谷直実の養父でも
          あった久下直光とされる。ただし、市田氏の出自について一次史料からは裏付けられて
          いない。
           『成田記』によれば、明応年間(1492〜1501)に市田弥三郎兼行が忍城主成田氏に
          降ったとされる。兼行の孫長兼は成田氏長の妹を妻とし、その子太郎(信友)は、天正
          十八年(1590)の小田原の役にともなう忍城の戦いで、寄せ手の浅野長吉(長政)に
          寝返りを打診している。役後、市田太郎はじめ成田氏主従は会津の蒲生氏郷預かりと
          なった。市田氏館は、このときまでに廃されたものと思われる。
           他方、『続群書類従』所収の「深谷上杉系図」等によると、深谷上杉憲賢の子氏盛と
          して、「号市田太郎 実北条氏也 憲賢外孫也 当代武州久下」とある。永禄四年(15
          61)に編纂された『関東幕注文』には、深谷上杉氏を示す「深谷御幕 竹に雀」とともに、
          「市田御幕 竹に雀」の記述がみられる。したがって、このときまでには上杉氏一門の
          市田氏が存在していたことになる。氏盛については「実北条氏」という表現から北条氏
          からの養子とも考えられているが、同氏の系譜上どこに位置する人物かは不明である。
           憲賢は久下の東竹院の中興開基とされ、この地域に勢力をもっていたことは間違い
          ない。ただ、成田氏家臣市田氏と深谷上杉氏庶流市田氏が並び立っていたことになり、
          憲賢の代には成田氏と上杉氏は同盟関係にあったものの、所領の配分はどのように
          なっていたのか、また市田氏館がどちらに属していたのかなど、疑問が残る。


       <手記>
           現在の久下字上分一帯が、かつては市田と呼ばれていたそうです。館跡には市田
          稲荷社があったとされていますが、今では失われています。
           現状は宅地と畑地であり、館の痕跡を見つけるのは困難といえます。ただ、比定地
          の南辺付近には昔ながらの小さな水路が流れており、あるいは館の堀として利用され
          ていたものかもしれません。

           

市田氏館跡を俯瞰する。
 


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