吉田氏城(よしだし)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 吉田氏
 遺構  : 土塁、虎口、櫓台
 交通  : 伊賀鉄道上野市駅からバスに乗り、
      「蓮池」下車徒歩15分


       <沿革>
           『三国地誌』に「吉田氏堡蓮池村」と記載がある。吉田氏について、『日本城郭大系』に
          よれば『蓮池郷土史』に、喰代の百地丹波や高山の高井将監と並んで地頭的な立場に
          あった有力土豪の1人で、京の吉田禰宜の流れを汲むとあるとされる。
           また城の西端には、吉田氏の家老奥勘右衛門の屋敷があったとされる。奥氏というと、
          喰代に奥氏城があるが、両者に関係があるのかは定かでない。


       <手記>
           蓮池・喰代・高山3か村から成る木代郷の総社である木代神社から尾根を北へ登って
          行くと、吉田氏城の最後部である天守台の土塁が現れます。土塁下は堀跡のようにも
          見えますが、はっきりとはしません。
           『大系』の表現にしたがえば、峰のピークを利用した天守台の向こうには本丸があり、
          その東下には館跡の曲輪があります。館跡は丘の中腹を利用し、周囲を土塁で囲んだ
          典型的な伊賀式城館の様相を呈しています。さらに本丸から峰先側にも削平地が続き、
          前出の奥氏屋敷跡とされる西の丸に至るようですが、そちらは藪化が進行しているよう
          で未訪です。
           吉田氏城の一番の特徴は、天守台と呼ばれる櫓台まで備えた規模の大きさにあると
          いえるでしょう。実際に天守に相当するような高層建築があったかは不明ですが、単郭
          が圧倒的に多い伊賀にあって、これだけ多くの曲輪を擁する城はかなり希少です。
           直感的には、もともと単郭伊賀式の館跡曲輪からはじまって、拡張されていったものと
          推察されます。吉田氏については、これだけの城郭を構えているにもかかわらず、天正
          伊賀の乱について詳述した『伊乱記』にはみられないなど謎の多い郷士といえます。
           あるいは伊賀の乱に際して織田氏に協力した、伊賀衆から見れば裏切者だったため
          に『伊乱記』の記述から除かれた、さらに言えば、そもそも伊賀平定後に織田氏が地域
          支配のために送り込んだ家臣筋だった、といった可能性も、個人的には考えています。
          少なくとも吉田氏が織田氏の伊賀平定後も支配層として蓮池に残ったとすれば、居城に
          天守台が設けられていたり、周辺諸城に塁を見ないほど多くの曲輪を有していたりする
          るのも、説明がつくように思うのです。

 最後部の天守台土塁。
天守台土塁下の堀状地形。 
 天守台の上。
天守台から派生する本丸土塁。 
 本丸のようす。
館跡曲輪のようす。 
 館跡曲輪北隅の土塁。
館跡曲輪北西辺の虎口。 
 虎口を出たところ。
 右手は館跡曲輪の土塁。
本丸北隅下の虎口。 
 本丸北西下の曲輪。
同曲輪西辺の切岸。 


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