吉原氏城(よしわらし)
 別称  : 吉原城
 分類  : 山城
 築城者: 吉原氏
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : 近鉄大阪線名張駅からバスに乗り、
      「吉原中央」下車徒歩3分


       <沿革>
           天仁元年(1108)に吉原至行がこの地に入植したと伝わるが、吉原氏の出自や築城の
          経緯など詳細は不明である。
           天正四年(1576)に北畠具教が織田信長・信雄(北畠具豊)父子に殺害されると(三瀬
          の変)、興福寺の僧となっていた具教の弟が還俗して北畠具親と名乗り、吉原左京亮の
          もとへ身を寄せた。具親は吉原の北方に北畠具親城を築き、翌五年(1577)に伊勢国の
          森城で挙兵したが、敗れて安芸へ落ち延びた。
           天正九年(1581)の第二次天正伊賀の乱に際し、織田勢に打ち取られた伊賀衆の1人
          として吉原城主吉原次郎の名が『信長公記』に見える。また『伊乱記』には、柏原城
          立て籠もった郷士の1人に吉原金弥が挙げられている。以降の吉原氏および吉原氏城
          については不明である。


       <手記>
           吉原は青蓮寺ダムから折戸川を遡った山間部に位置しています。さらに上流には伊賀
          十二人衆の一人・布生大膳の布生大膳館があり、今では訪れるのも一苦労な山あいの
          集落ですが、北畠氏の本拠地・多気にも近く、当時はそれなりの要地だったのでしょう。
          平安時代に吉原至行が土着したという伝説はさすがに眉唾ですが、地名を名字に冠して
          いることから、伊賀では古い由来をもつ一族であることは間違いないと思われます。
           城域へは南側の峠から直登して入れます。頂部の主郭を中心に、周囲に腰曲輪群が
          展開。北東には鞍部削平地を隔てて塚状の出丸が設けられています。
           西向かいの山の中腹には吉原氏砦があり、こちらは郭内には入れなかったのですが、
          単郭の典型的な伊賀式城館のようです。一方の吉原氏城は、土塁が低い、多数の曲輪
          を従えているといった、伊賀では珍しい構造の城館といえます。この点、あるいはもともと
          の吉原氏の主城は吉原氏砦の方で、北畠具親を迎えるにあたり、吉原氏城を新規築城
          した可能性も、考えられるのではないでしょうか。

           
 南西から吉原氏城跡を望む。
主郭西下の腰曲輪と切岸。 
 主郭郭内と土塁。
主郭のようす。 
 主郭南下の腰曲輪。
主郭北東の鞍部削平地。 
 主郭北東の塚状の出丸。
出丸を見上げる。 
 出丸の土塁。


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