飯盛山城(いいもりやま)
 別称  : 飯盛城
 分類  : 山城
 築城者: 南朝勢力ないし木沢長政
 遺構  : 曲輪跡、石垣、土塁、堀、虎口
 交通  : JR片町線(学研都市線)四条畷駅徒歩30分


       <沿革>
           正平三/貞和四年(1348)の四条畷の戦いにおける『太平記』の記述に、「縣下野守
          その勢五千余旗飯盛山に打ちあがりて」とあり、これが史料にみられる飯盛山の初出と
          される。ただし、この戦いにおいて、城と呼べるほどの施設があった可能性は低いものと
          みられている。また、『河内志』では、建武元年(1334)に北条一族の佐々目僧正憲法が
          蜂起した際に築いたものとしているが、今日では憲法が拠ったのは紀州の飯盛山城で
          あるとされている。このほか、楠木正成の八臣の1人恩地左近が拠ったとも伝わるが、
          左近は正保二年(1645)に成立した『太平記評判秘伝理尽鈔』以降にしか登場せず、
          実在が疑問視されている。
           飯盛山を確実に城として用いたのは、戦国時代の畠山家臣木沢長政が最初とされる。
          長政は河内守護代を務め、主君畠山義堯(義宣)を援けて活躍したが、野心が大きく
          義堯と対立した細川晴元と接近し自立傾向を強めたため、義堯や晴元重臣の三好元長
          から警戒されるようになった。享禄四年(1531)、畠山・三好連合軍が飯盛山城に長政を
          攻めたが、長政の要請を受けた晴元が介入したため攻城軍は撤兵した。翌五年(1532)
          に連合軍は再び飯盛山城に攻め寄せ、このときも晴元が救援に動いたが、今度は攻囲
          を解かせることができなかった。晴元は、元長が帰依していた法華宗への対抗心を利用
          して、浄土真宗本願寺法主証如に加勢を依頼した。証如は一向一揆を蜂起させ、義堯・
          元長を自害にまで追い込んだ。こうして長政は、一戦にして河内を睥睨する実力者へと
          のし上がったが、自らを救い畠山・三好両氏を壊滅させた一向一揆への対応に苦慮する
          ことにもなった。
           長政は一向宗を抑えるために法華門徒を利用しようと考え、法華宗とつながりの深い
          三好元長の遺児長慶を帰参させた。しかし、成長した長慶は細川家中で頭角を現し、
          父の仇である長政や晴元に対して独自行動をとるようになった。長政も増長した野心が
          孤立を招いており、将軍足利義晴を自身の軍事下に置くという起死回生の策も、義晴に
          逃げられたため失敗した。天文十一年(1542)、ついに晴元の命を受けた長慶と、畠山
          尾州家重臣遊佐長教の連合軍との直接対決で、長政は討ち死にした(太平寺の戦い)。
          当時、飯盛山城には長政の傀儡君主である畠山総州家の畠山在氏がいたが、勢いに
          乗る細川・尾州家軍に包囲され落城した。
           戦後、飯盛山城は尾州家家臣安見宗房(直政)に与えられた。天文二十年(1551)に
          長教が暗殺されると、宗房は後任の河内守護代となったが、永禄元年(1558)には主君
          畠山高政を追放した。しかし、翌二年(1559)に高政は長慶の支援を受けて復帰し、逆に
          宗房を逐った。翌三年(1560)、宗房は守護代として飯盛山城に戻ったが、今度は長慶と
          高政が対立し、同年中に飯盛山城は攻め落とされた。これを機に、長慶は居城を芥川城
          から飯盛山城へ移し、河内経略に乗り出した。
           永禄五年(1562)、紀州で体勢を立て直した高政が反撃に転じ、三月五日の久米田の
          戦いで長慶の弟実休(義賢、之虎)を討ち取った。このとき長慶は飯盛山城にいたが、
          巷説ではちょうど連歌会を開いており、実休敗死の知らせを受けると、自らの付け句で
          お開きとし、弔い合戦に向かったとされる。しかし、当時三好氏は南の畠山氏だけでなく
          山城国や大和国にも戦線を抱えており、呑気に連歌会を催している状況ではなかったと
          思われ、信憑性に疑問がもたれている。
           翌四月、勢いに乗る高政勢は大和の反三好の諸勢力と合流し、飯盛山城を包囲した。
          攻城戦は1か月ほど続いたが、長慶の子義興や重臣松永久秀らの援軍が到着したこと
          から、高政勢は囲みを解いて撤退を開始した。五月十九日、三好と畠山の総力戦となる
          教興寺の戦いが行われ、丸一日におよぶの激戦の末、畠山軍は壊滅した。
           永禄七年(1564)五月九日、長慶は弟の安宅冬康を飯盛山城へ呼び出して自害させ、
          その従者18人も成敗した。実休の死に前後して、長慶は義興やもう1人の弟十河一存
          を相次いで失っており、唯一残った実弟による三好家の簒奪を恐れたためとも、すでに
          心神耗弱に陥り、久秀の讒言に惑わされたためともいわれる。長慶が精神を病んでいた
          のは間違いないとみられ、わずか2か月後の同年七月四日、後を追うように長慶も病死
          した。
           家督は一存の子で長慶の養子の義継が継いだ。若年の義継をよそに、実権を握って
          いたのは三好三人衆と松永久秀であり、翌永禄八年(1565)に両者が対立すると、義継
          は三人衆に擁されて飯盛山城から高屋城へ移された。
           永禄十一年(1568)に織田信長が上洛すると、三人衆もこれに降り、飯盛山城は畠山
          高政の弟昭高の持ち城となった。この間の飯盛山城については、詳らかでない。元亀
          二年(1571)に信長包囲網が形成されると、三人衆や義継、久秀もこれに加わり、昭高
          は信長方として転戦している。このときに飯盛山城で戦いがあったのかは不明である。
          天正元年(1573)、昭高は反信長派の家臣遊佐信教(長教の子)に暗殺された。翌二年
          (1574)には信教が高屋城に攻め滅ぼされ、飯盛山城も落城した。落城時期については
          いくつか説があって判然としないが、同三年(1575)に信長が河内国内の諸城の破城を
          命じているので、このときまでには攻め落とされ、廃城となったものと推測される。


       <手記>
           飯盛山は生駒山地の北西端付近に突き出た南北に長い峰です。鉄道からのアクセス
          もよく山頂の眺望も開けているため、大阪周辺の格好のハイキングコースになっている
          ようです。城跡へは北西麓の四条畷神社裏手から登ることができ、神社境内はかつて
          の居館跡であるものと推測されます。古道と呼ばれる登城路は神社の南脇から登るの
          ですが、こちらは崩落の危険ありということで、私が訪れたときは通行止めになっていま
          した。代替路は、神社の裏手を一旦北へスライドしてから山肌に取りつきます。スライド
          する道を直進すると尾根筋を登る道に出るのですが、この道には人の足の上がり幅を
          無視したキツイ階段があり、這って登るような急勾配なのでまったくおすすめしません。
          スライド道の右手を見ながら歩くと、木に赤いテープやマークのある脇尾根があるので、
          そこから木立へ分け入ると、普通の九十九折れの山道があるのでそちらを推奨します。
           どちらの道を登っても、行きつく先は城内最北の曲輪です。飯盛山城は、大きく分けて
          5つのピークから成っています。城内の曲輪の名称は、わりと資料によってまちまちで、
          最北の曲輪については、現地説明板で「二の丸史蹟碑曲輪」、『日本城郭大系』では
          「北ノ丸(縄張り図では三本松丸となっていますが、本文を読む限りでは誤り)」、『戦国
          の城(中)』では二曲輪となっています。その名のとおりの古い史蹟碑があり、この曲輪
          からの眺望は、本丸に次ぐ絶景といえます。
           2番目の曲輪には、登山300回記念碑という塚があり、だからというわけではないので
          しょうが、おおむね御体塚曲輪(丸)という呼称で統一されているようです。この曲輪の
          周囲には堀切と石垣が残っていて、飯盛山城内でもっとも遺構がよく残っている箇所の
          1つです。これらの石垣は、御体塚曲輪南の土橋下や腰曲輪の通路脇、曲輪北の堀切
          など、防御というより土留めとして築かれたと思われるものがほとんどです。このような
          土留めの石垣は、三好長慶の前の居城である芥川(山)城にもみられ、三好氏の城の
          特徴といえると思われます。同じ畿内の大名でも、「魅せる」用途で石垣を用いたと考え
          られている六角氏との築城における考え方の違いが現れているようで、とても興味深い
          といえます。
           御体塚曲輪の南のピークは、現地説明板では「三本松曲輪(丸)」、『大系』では無名
          となっています。この曲輪の南が本丸域で、3段に分かれています。本丸域は上段から
          高櫓郭、本郭(丸)、倉屋敷と呼ばれています。最頂部の高櫓郭は、高櫓とはいっても
          ここに高層建築があったとは思われず、またそれなりに広さがあります。飯盛山は地元
          では三好氏や木沢氏よりも楠木氏の山という意識が強いようで、高櫓郭には楠木正行
          の像があります(残念ながら長慶の像はありませんでした)。本郭には、石碑や説明板、
          展望台があります。
           本丸の南には千畳敷と呼ばれる、名前のとおり城内最大と思われる曲輪があります。
          こちらは上下2段となっていて、上段には放送局の電波送信所があります。この脇まで
          車道が通っていて、タクシーが止まっていたので一般車もここまで登れてしまうようです。
          千畳敷南側の南丸脇には、城内で最も複雑かつ堅固と思われる虎口があります。
           千畳敷の東側山腹にある楠公寺は、馬場跡と呼ばれています。『大系』では、実際に
          馬場があったわけではなく、何らかの兵站施設があったものと推測しています(『大系』
          では妙法寺となっています)。ただ、この曲輪に南接して用水池と思われる遺構があり、
          広い意味で馬場と呼ぶことに問題はなかろうと思います。楠公寺から北へ歩くと、本丸
          高櫓郭東側山腹付近にも石垣跡があります。この石垣も、防御というよりは山腹の山道
          確保のための土留めに見えます。その先にもさらに石垣があるのですが、こちらは隅石
          を伴っていて、他の石塁とは様相を異にしています。その脇には、建物の基壇石積みも
          みられ、おそらく番所か何かが存在したものと推測されます。石垣の方には城戸が設け
          られていたのでしょう。
           飯盛山城全体について、『大系』では防御力の弱い城とみなしています。たしかに、
          その規模に比べて堀や虎口の工夫がみられず、縄張りや築城技術は決して高度とは
          いえません。ですが、これから河内・大和・和泉方面へ勢力を延ばそうと考えたときに、
          飯盛山は各方面への展開に有利であるうえ、とくに大阪平野から見れば存在そのもの
          が目につく山です。図らずも三好長慶終焉の地となりましたが、居城を移したばかりの
          長慶にしてみれば、ここを終点とするつもりはなかったでしょう。さらなる飛躍のための
          足掛かりとみていたと考えれば、岐阜城へ移ったころの信長と同じ天下に対する覇気
          のようなものを、この城に登って眼下に大阪市街を見下ろしたときに、感じられるような
          気がしました。

           
 飯盛山遠望。
本丸本郭の城址碑。 
 本郭の展望台と、奥に土塁跡か。
本丸倉屋敷郭。 
 三本松曲輪(本丸の北の曲輪)。
御体塚曲輪。 
 御体塚曲輪下の石垣。
御体塚曲輪南側土橋下の石垣。土止めか。 
 御体塚曲輪下腰曲輪下の石垣跡。
御体塚曲輪下の腰曲輪。 
 御体塚曲輪北の堀切。
 左手下は土止め石垣か。
北ノ丸ないし二の丸の史跡碑。 
 千畳敷下段より上段を望む。
南丸の土塁。 
 千畳敷南の虎口。
楠公寺。通称馬場跡。 
 馬場跡北の石垣その1。
その2。 
隅石があり、ここだけは確実に土止めではないと思われます。 
 その2石垣脇の建物基壇石積み。
城跡から大阪市街を望む。 


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