岐阜城(ぎふ) | |
別称 : 稲葉山城、金華山城、井ノ口城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 二階堂行政 | |
遺構 : 石垣、曲輪、井戸、居館跡 | |
交通 : JR東海道線岐阜駅よりバス 岐阜公園前バス停下車、ロープウェイ利用。 |
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<沿革> 建仁元年(1201)、鎌倉幕府の政所執事を務めた二階堂行政によって築かれたのが はじまりと伝える。行政の後、その婿の佐藤朝光が城主となり、さらにその子伊賀光宗、 その弟光資と継がれた。光資が稲葉氏を称したのを機に、城名も「稲葉の山城」の意で 稲葉山城と改められたという(それまでは金華山城と呼ばれていたとされる)。 14世紀初め、政所執事二階堂行藤の死後に廃城とされ、しばらく放置されていたが、 応永十九年(1412)、守護代斎藤利永によって修築された。利永はしばらく居城していた ようだが、後に加納城を築いて移ったため、再びうち捨てられた。 その後経緯は不詳であるが、斎藤家臣長井氏を継いだ長井規秀(後の斎藤道三)が 目をつけ、天文八年(1539)に大規模な改修を加えたとされている。その後は戦国大名 斎藤氏の居城として発展した。 永禄七年(1564)、道三の孫龍興の代に竹中半兵衛重治と安藤守就が反乱を起こし、 両名によって一時稲葉山城が奪われた。長らく酒色にふける主君龍興を諌めるために 起こした事件といわれてきたが、最近の研究で重治らには斎藤氏に取って代わる意志が あったことが指摘されている。 永禄十年(1567)、稲葉山城は織田信長によって落とされ、名も岐阜城と改められた。 同十二年(1569)に岐阜を訪れた宣教師ルイス・フロイスらは、山麓の居館に天守様と 目される高層建築があったことを日記に記している。 天正四年(1576)に信長が安土城を築いて移ると、岐阜城は信長の嫡男信忠の居城と なった。信長・信忠父子が同十年(1582)の本能寺の変で弑されると、道三の子の斎藤 利尭が城を占拠したが、山崎の戦いの後は信長の三男信孝が城主となった。信孝は、 柴田勝家と組んで羽柴秀吉に対抗したが、翌十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いで勝家が 敗れると岐阜城もほどなく落城し、自害に追い込まれた。 城は池田恒興の長男元助に与えられたが、恒興・元助父子は翌天正十二年(1584) の小牧・長久手の戦いで戦死した。これにより、恒興の次男輝政が大垣城から岐阜城 に移った。輝政の時代に城はさらに拡張され、惣構や天守が造営された。 輝政が三河吉田城へ移されると、羽柴秀勝ついで織田秀信が入城した。秀信は慶長 五年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に与して、岐阜城に立て籠もった。西進する東軍の 諸将は、家康が東軍の結束を訝ってなかなか進軍しないのを知ると、戦意の証として 岐阜城に猛攻を加えた。秀信以下懸命に防戦したが、城は1日で落城した。 戦後、家康は加納城を築くため岐阜城を廃城とし、建造物や石垣の一部はその建材 として転用された。 <手記> 登ってみると分かりますが、岐阜城は急峻かつ岩肌が露わな山上に築かれていて、 人が移動できるスペースが限られています。天守も曲輪も、岩塊を何とか削って平場を 作っているという感じです。ここに大勢で籠もるのは物理的に不可能で、竹中半兵衛が わずか十数人で城を乗っ取った逸話や、関ヶ原の戦いでたった1日で落城してしまった 話も、これで理解できます。 はっきりいえば、たしかに峻険な城といえるでしょうが、むしろその山容と立地から、 美濃国を掌握しているのだというデモンストレーションとしての価値が大きかったのだと 思います。なにしろ中山道を歩いていると、濃尾平野のどこからでもはっきり「あれだ」と 分かる山なものですから、その山頂に建造物が建っていれば、かなりの権威を確立でき たことと思います。 また、天守閣からの眺望は絶景のひとことに尽きます。思わず「岐阜城や 天と人との 間かな」と一句ひねってしまいました。濃尾平野はもちろん、西は伊吹山から東は犬山 まで一望の下に見渡せます。 さらに、山麓の信長居館跡も見所の1つです。発掘調査を元に石垣や升形の虎口など が復元されていて、またその下には斎藤氏稲葉山城時代のものと思われる遺構も検出 されており、一部公開されています。 |
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山麓居館跡から金華山を望む。 | |
天守を見上げる。 | |
天守より西方の眺め。 山麓の公園は信長居館跡。 当時の長良川は、公園右側の大通りのあたりが川岸でした。 右上の小さな緑の丘は、鷺山城址。 |
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天守より東方を望む。 手前の建物は歴史資料館の模擬櫓。 |
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本丸下の井戸。 他にも掘り下げ式のものが2個、貯水式のものが1個あります。 |
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下格子門跡。 関ヶ原前哨戦では激戦となった。 |
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馬場と呼ばれる曲輪跡。 これで最も広い曲輪の一つです。 |
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信長居館跡の復元升形虎口。 | |
居館跡の復元石垣。 犬走り状に二段に亘っているのが特徴です。 |
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信長時代の遺構の下から検出された、斎藤氏時代と思われる遺構。 |