三岳城(みたけ) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 井伊氏 | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、石積み、虎口跡 | |
交通 : 天竜浜名湖鉄道金指駅からバス 「井伊谷」バス停下車徒歩60分 |
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<沿革> 井伊谷領主井伊氏の詰城とされるが、築城年代は明らかでない。南北朝時代の 暦応元/延元三年(1338)に、井伊道政が後醍醐天皇の子宗良親王を井伊谷に 迎え入れた。道政は井伊谷城に親王の行在所を設けたとされているが、戦時には 三岳城に籠ったものと考えられる。暦応三/興国元年(1340)、高師泰・仁木義長 らの攻撃によって三岳城は落城し、親王らは大平城へ撤退した。 永正八年(1511)、駿河国の今川氏親の侵攻に晒された遠江守護斯波義達は、 井伊谷に入って今川勢と対峙した。しかし同十年(1513)、今川家臣朝比奈泰似ら の攻撃によって、三岳城は陥落した。 その後も、天正十八年(1590)に徳川家康に従って井伊直政が関東へ移るまで 井伊氏の詰城として機能してたものと推測されるが、詳細は不明である。 <手記> 井伊谷の背後に聳える三岳山は、標高467m、麓からの比高でも400m以上あり、 城山としてはかなり高いところにあります。独立性の高さや周囲からの見え方など から拝察するに、南北朝時代のトレンドである山岳寺院を転用した城郭である可能 性が指摘できると思います。ただ、城内の平場面積はそれほど大きいとはいえず、 寺院というよりは山岳信仰の施設のようなものがあったのではないかと、個人的に は考えています。 車があれば、山腹の三岳神社に広めの駐車場があり、そこからさほどの労もなく 山頂まで登ることができます。三岳城は主峰とその東の峰の2つに城域がわたって いて、神社からの登山道は両者の間の鞍部に到達します。ここには堀切跡と喰い 違い虎口状の造作がみられ、当時の大手と考えられています。 主峰は、大きく主郭とその一段下の副郭、および複数の腰曲輪から成っています。 山頂からの眺望は言わずもがな素晴らしいのですが、城跡として注目すべきなの は、むしろ搦手にあたる主郭西側にあります。ここには横堀が2段にわたって設け られており、とくに下段の方は内側が石積みで固められているうえ、断続的に畝状 の仕切り土塁が付属しています。明らかに戦国時代の遺構であり、三岳城が徳川 氏や武田氏の時代にも使用されていたことを示しているものと考えられます。 東の峰は、登ってまもなく説明板が設置されているものの、そこから先はやや藪 となっています。ですが、峰の前後に堀切が穿たれていたり、メインの曲輪に土塁 で囲まれた上段が設けられていたりと、城としての造作は充分に見て取ることが できます。 全体としてみると、井伊谷城よりはずっと規模も大きく整備された城なのですが、 それでも天正壬午の乱以降の井伊家の活躍に比べると、やや物足りない感じが します。このアンバランスをどう解釈すべきか、大きな論点ではないかと考えてい ます。 |
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井伊谷城址から三岳城址を望む。 中央の峰が主峰、その右手が東の峰。 |
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主郭の城址碑と眺望。 | |
主郭のようす。 | |
主郭西側下の虎口跡か。 | |
主郭西側下の腰曲輪。 | |
主郭西側下の横堀(上段)。 | |
横堀(下段)の石積み。 | |
同上。 | |
横堀(下段)の畝状の仕切り土塁。 | |
同上。 | |
主峰副郭の虎口状地形。 | |
主峰副郭下の腰曲輪。 | |
鞍部の堀切跡と喰い違い状虎口跡。 | |
東の峰の説明板。 | |
東の峰西側の堀切跡。 | |
東の峰メインの曲輪上段。 | |
上段周囲の土塁。 | |
東の峰の腰曲輪。 | |
東の峰東側の堀切。 |