井伊谷城(いいのや)
 別称  : 御所丸
 分類  : 山城
 築城者: 井伊氏
 遺構  : 削平地、土塁、虎口跡
 交通  : 天竜浜名湖鉄道金指駅からバス
       「井伊谷」バス停下車徒歩20分


       <沿革>
           井伊谷領主井伊氏の居城と伝えられる。井伊氏は藤原北家流藤原冬嗣の六男良門
          の子利世の後裔を称しているが、藤原利世という人物の実在は現在のところ確認され
          ていない。ほかに、藤原南家流や継体天皇の末裔とされる三国氏流とする説もあるが、
          確証はない。
           『保元物語』に登場する遠江国出身の武士「井八郎」を井伊氏の祖とみる向きもある
          ものの、こちらも確定的とはいえない。
           井伊氏の動向が明確となるのは、南北朝時代に入ってからである。後醍醐天皇の子
          宗良親王は、暦応元/延元三年(1338)に陸奥国霊山へ下向しようと伊勢国大湊から
          出航したが、船が座礁したために遠江国へ漂着した。このとき、親王一向を迎え入れた
          のが、井伊道政とされている。道政は井伊谷城に親王の行在所を造営した。そのため、
          井伊谷城は御所丸とも呼ばれるようになったという。
           暦応三/興国元年(1340)、高師泰・仁木義長らの攻撃によって井伊谷城は陥落し、
          親王らは大平城へ撤退した。ただし、井伊氏は戦時には三岳城に籠もっていたものと
          考えられているため、井伊谷城で戦闘があったかどうかは定かでない。
           その後、宗良親王は信濃国大河原を拠点としつつ各地を転戦し、井伊氏も南朝方に
          留まり続けた。大河原はそのまま親王薨去の地となったとする見方が有力であるが、
          江戸時代後期に成立した『南山巡狩録』などでは、元中二/至徳二年(1385)に井伊
          谷城で没したとしている。実際に、井伊谷にある井伊谷宮は宗良親王を主祭神とし、
          親王の墳墓が存在している。この場合、井伊氏が井伊谷を回復した経緯については
          詳らかでない。
           戦国時代に入り、井伊直平は今川氏の傘下に収まった。直平の嫡男直宗は、天文
          十一年(1542)の田原城攻めで討ち死にし、その子直盛が跡を継いだ。直盛には男子
          がなかったため、従兄弟の直親を養子としたが、これに不満をもつ井伊家家老の小野
          和泉守道高(政直)は、直親の父直満とその弟直義(いずれも直宗の弟)を今川義元
          に讒言し、自害に追い込んだ。幼少の直親は難を逃れ、信州に身を隠したが、政直が
          死没すると、弘治元年(1555)に井伊谷に帰還した。
           永禄三年(1560)、直盛は桶狭間の戦いで討ち死にし、直親が井伊家当主となった
          が、今度は道高の子但馬守道好(政次)の讒言により、今川氏真から嫌疑を受けた。
          直親は弁明に向かったが、途上で今川家臣朝比奈泰朝に襲撃され、殺害された。同
          九年(1566)には老齢の直平も死去し、井伊家には直親の遺した嬰児虎松しか男子
          がいなくなってしまった。そのため、直盛の一人娘次郎法師が、井伊直虎と名乗って
          家督を継いだ。
           永禄十一年(1568)、道好は井伊谷城を奪い、直虎らは菩提寺の龍潭寺へと逃げ
          込んだ。裏には、井伊家への介入を目論む今川氏真の意があったといわれている。
          直虎らは隣国三河の徳川家康に助力を頼み、井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・
          菅沼忠久)もこれに同調したため、翌十二年(1569)に道好は追い落とされ、捕えられ
          た末に処刑された。
           元亀三年(1572)、武田氏が西上作戦を開始して信州から侵攻してくると、直虎らは
          井伊谷城を武田家重臣山県昌景に明け渡して退去した。翌四年(1573)に武田信玄
          が死去すると、井伊氏は井伊谷城を再び回復した。
           天正十年(1582)、虎松は元服して井伊直政と名乗り、同年に直虎が逝去したため
          家督を継いだ。同十八年(1590)に徳川家が関東に移封となると、直政もこれに従い
          上野国箕輪城へと移った。井伊谷城は、遅くともこのときに廃城になったものと推定
          される。


       <手記>
           井伊谷は、浜名湖の北東端に注ぐ井伊谷川と神宮寺川の合流点付近に広がって
          いる穏やかな盆地です。その中心部奥の半独立丘上に築かれたのが井伊谷城です。
          円錐形の目立つ山ですが、斜面はかなり緩やかで、要害性は高いとはいえません。
          頂上に上下2段の削平地が認められますが、その周囲の斜面には、とりたてて造作
          は認められません。とはいえ、山肌にはぐーるぐると重機用の作業道がうねっていて、
          どこまでが原地形なのかは定かではありません。
           削平地を除いてもっともよく分かる遺構は、上段後背の土塁でしょう。また、下段の
          南と西に出入口が設けられていると現地説明板にありますが、いずれもコンクリート
          で舗装された道が付随しているので、こちらもどの程度旧状を留めているのか怪しい
          ところです。
           いずれにしても、現下の状況から判断される井伊谷城は、とくに縄張り上の工夫も
          みられない小城といった印象です。南北朝時代の特徴を色濃く残す三岳城と比べて
          もかなり貧弱で、物見台程度の用にしかたたなかったのではないかとすら感じさせ
          ます。
           井伊直政は、家康の関東移封時点で最大6万石を領していたともいわれています
          が、とてもその家禄に見合う城構えとは思えません。あるいは、旧武田領のどこかの
          城に本拠を移していたのかな、とも拝察されます。
           ちなみに、2017年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』を前に、賑やかになる前に訪問
          しておこうと思い立って行ったのですが、城跡の方はまだ穏やかでした。麓の商店街
          の酒屋で女将さんとお話したところでは、観光客は増えているがみな龍潭寺の方へ
          行ってしまうとのこと。市街から少し離れた寺の門前町は流行っているが、商店街は
          駐車場を整備したりこれからだとのことでした。

           
 井伊谷城址遠望。
下段のようす。 
 上段から下段と景色を望む。
下段南側の虎口跡。 
 下段西口、説明板にある虎口跡。
上段背後の土塁。 
 同上。


BACK