五十嵐館(いからし)
 別称  : 五十嵐氏館
 分類  : 平城
 築城者: 五十嵐吉辰か
 遺構  : 土塁、堀跡
 交通  : JR信越本線・弥彦線東三条駅からバスに
      乗り、「下田中学校前」下車徒歩15分


       <沿革>
           源頼朝に仕えた御家人・五十嵐小文治吉辰によって築かれたと伝わる。かつて、下田郷
          一帯は「五十嵐保」と呼ばれ、五十嵐氏はその在地領主とされるが、詳しい出自は不明で
          ある。『吾妻鏡』には、建暦三年(1213)の和田合戦で北条方として参戦した五十嵐小豊次
          の名が見えるが、小文治吉辰と関係があるのかは定かでない。
           南北朝時代以降、下田郷には高城を本拠とする下田長尾氏が入植し、五十嵐館の眼前
          にはその支城・原の城があるが、五十嵐氏との関係は定かでない。下田長尾氏は、長尾
          藤景の代の永禄十一年(1568)に、上杉輝虎(謙信)と対立して攻め滅ぼされている。
           五十嵐氏はその後も存続し、天正六年(1578)の御館の乱で上杉景虎を支持し、敗れて
          没落したとされる。館もこのころに廃されたと推測されるが、詳細は不明である。


       <手記>
           名字でよく目にする「五十嵐」といえば一般には「いがらし」と読みますが、こちらの五十嵐
          は「いからし」と濁らないそうです。五十嵐川の氾濫原にある台形の館城で、虎口は東辺に
          のみ開き、北辺には横矢とも偽虎口ともとれる凹状の屈曲部がみられます。
           低い土塁や浅く狭い空堀が四周巡っていますが、これらは復元のようで、どこまでが遺構
          かははっきりとしません。とはいえ、鎌倉以来の古族の居館跡が、全体像を把握しやすい形
          で整備されているというのはありがたいところです。

           
 北西から五十嵐館跡を望む。
西辺のようす。 
開口部は虎口ではないようです。 
おそらく非常時用の出入口でしょう。 
 北辺の凹部。
東辺のようす。 
 東辺の虎口跡と説明板。
郭内のようす。 
 南東隅のようす。


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