今村城(いまむら)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 今村慶満か
 遺構  : なし
 交通  : JR奈良線・京阪本線東福寺駅徒歩1分


       <沿革>
           江戸時代に著された『雍州府志』に、「鳥居ヶ崎の西、大和大路の東南、田間にあり 中古
          今村氏この所に寨を構える 末裔今なお存す」とある。
           今村氏は三好氏の被官で、三好長慶が京を支配するに及んで、今村紀伊守慶満が京都
          代官に任命された。今村城は、この慶満によって築かれたものと推測される。慶満は、永禄
          五年(1562)の教興寺の戦いで勝龍寺城に詰めるなど、三好氏の武将として活躍していた
          ことがうかがえる。
           他方、慶満の嫡男弥七政次は、波多野氏に仕えたとされる。京の入り口の汁谷口を支配
          していたということから、引き続き今村城に拠っていたと思われるが、三好氏から波多野氏
          に転じた経緯は不明である。信長の上洛後は、織田氏に従ったものと推察される。
           天正十年(1582)の本能寺の変で、今村氏は明智光秀に協力したとされ、光秀を斃した
          羽柴秀吉の命によって伊賀へ蟄居した。今村城は、このとき廃城になったものと思われる。
           なお、今村氏は後に秀吉の弟秀長の仲介で京へ戻り、柳原庄村に住したとされる。その
          子孫は今日まで続いており、今村氏に伝わる『今村家文書』は戦国期の京のようすを知る
          うえで貴重な史料となっている。


       <手記>
           今村城は、東福寺駅のすぐ北東付近にあったとされています。地理的には東や南東から
          京へ入る道を押さえる要衝にあります。南から南東にかけて落ち込む地形となっていて、
          当時は北に今熊野川が流れていました。旧流路は道路となっていていますが、城の北西
          端と北東端にはそれぞれ一之橋と夢の浮橋が架かっていたとされ、碑が立っています。
           城の北西部は瀧尾神社境内となっていますが、これは大正時代に遷されたもので城とは
          関係ないようです。とくに城跡を示すようなものはなく、これらの地形から城の存在を推測
          するのみです。

           


今村城域に建つ瀧尾神社。


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