勝龍寺城(しょうりゅうじ) | |
別称 : 青龍寺城、小龍寺城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 畠山義就か | |
遺構 : 土塁、空堀、土橋 | |
交通 : JR東海道本線長岡京駅徒歩10分 | |
<沿革> 勝龍寺城の創建は明らかでない。一般には15世紀半ばごろに、山城国守護畠山義就によって 乙訓郡の郡代役所として築かれたとみられている。応仁・文明の乱に際して幾度か戦場となり、 城砦化していったと考えられている。 戦国時代に三好氏が台頭すると、松永久秀の持ち城となっていたとみられている。三好長慶の 死後、久秀と三好三人衆が対立すると、永禄九年(1566)七月に勝龍寺城は三人衆軍によって 攻略され、三人衆のひとり岩成(石成)友通が城主となった。 永禄十一年(1568)、足利義昭を奉じて上洛の軍を興した織田信長は、入京を前に柴田勝家ら の先遣隊を送り、勝龍寺城を攻めさせた。このときは、友通の防戦により落城は免れたようだが、 入京を果たした信長が5万と称する大軍で改めて攻め寄せたため、抗戦を諦め開城した。勝龍寺 城と乙訓郡および西岡(桂川以西)は、細川藤孝(後の幽斎)に与えられた。永禄十二年(1569) の本圀寺の変に際して、友通に一時勝龍寺城を奪われたともいわれるが、定かではない。 元亀二年(1571)、信長の命によって勝龍寺城の大改修が行われた。この作事には、桂川以西 の所帯すべてに3か月の普請労役が課されたとされ、信長がいかに勝龍寺城を重視していたかが うかがえる。天正六年(1578)には、藤孝の子忠興と明智光秀の娘玉(後のガラシャ)の婚礼が、 この城で行われた。 細川氏は天正九年(1581)に丹後国へ移封となり、代わって京都所司代村井貞勝の被官矢部 善七郎と猪子兵助が城代となった。翌十年(1582)に本能寺の変が起こると、勝龍寺城は光秀の 支配下となった。山崎の戦いに敗れた光秀は勝龍寺城へ一時撤退するが、体勢を立て直せない まま城を脱出し、坂本城を目指して落ちていった。 戦後に羽柴秀吉が入城したものの、その後は使用されず廃城となった。天正十七年(1589)に 淀城(淀古城)が秀吉の側室茶々に与えられた際、その修築に建材が転用され、勝龍寺城跡は 荒廃した。 江戸時代初期の寛永十年(1633)、永井直清が1万2千石で長岡藩(勝龍寺藩)を立藩した。 このとき、直清は旧勝龍寺城を改修して完成させたといわれてきた。しかし近年、JR長岡京駅の 東側近辺で永井氏時代の記録と合致する遺構が発見され、荒廃が進んだ旧勝龍寺城に代わり、 城の北側に陣屋が設けられたものと考えられるようになった。すなわち、勝龍寺城は山崎の戦い をもって廃城となったとみるのが、今日では一般的である。 ちなみに、熊本藩細川家の美術品や資料などを収めた東京目白の「永青文庫」は、勝龍寺城の 別字である「青龍寺城」から一字とったものである。 <手記> 勝龍寺城の東西を小幡川と犬川が流れ、両川は城の南で合流しています。また、城の西を西国 街道が走り、京洛の入り口を押さえる交通の要衝にあります。城は、古墳を利用したともいわれる 長方形の本丸を中心として、神足神社近辺を北限とする規模の大きなものでした。神足神社は、 中世には勝龍寺城とは別の城(神足城)であったとみられていますが、藤孝の改修によって城域 に取り込まれたと考えられています。 皮肉なことに、本丸は公園化によって遺構が破壊され、元は別の城であった神足神社周辺に、 土塁や堀、土橋といった藤孝改修時の遺構が見受けられます。本丸の水濠や石垣、建物などは すべて模擬で、櫓の内部は資料館となっています。公園内のそこかしこに発掘で明らかとなった 遺構の説明があるのですが、全体としては残念な公園化の見本のようになってしまっています。 |
|
本丸の模擬櫓を望む。 | |
本丸南側の土塁と、登り道跡。 | |
北門跡。光秀はここから脱出したとか。 | |
本丸にある細川忠興とガラシャの像。 |