倉田城(くらた)
 別称  : 本城
 分類  : 平城
 築城者: 倉田氏か
 遺構  : 堀
 交通  : JR飯田線北殿駅徒歩10分


       <沿革>
           在地領主倉田氏の居館とされる。『南信伊那史料』によると、鎌倉からやってきた倉田
          筑後守ははじめ鳩吹城に居住したが、天文年中(1532~55)に木曽義康と与地ヶ原で
          戦って敗れ、この地に移り箕輪氏に属したとされる。ただし、筑後守の出自や鎌倉から
          移住した経緯は不明である。また、箕輪氏とは福与城主藤沢氏を指すとみられる。
           一方、『伊那温知集』には、天正(1573~92)のころに北篠丹後守が住んでおり、その
          後に倉田将監安光が居住したとある。将監については『伊那温知集』および『伊那志略』
          に記述があり、どちらも藤沢頼親に仕えて武勇に優れ、甲州韮崎合戦で討ち死にした点
          では共通している。ただし、『温知集』では天文七年の同合戦を天正と誤って記している。
          あるいは北篠丹後についても天文の誤記とすれば、倉田筑後守からの話もつながるが、
          確証はない。
           『温知集』によれば、将監の跡は淡路、石見と続いて帰農したとされる。


       <手記>
           倉田城は天竜川河岸上に築かれた典型的な崖端の城ですが、その概要を説明する
          のは少々難しい部分があります。目印になるようなものもほとんどないのですが、まず
          はその名も「Comfort Villa 城」というアパートメントを見つけましょう。その東側の水田
          が北城と呼ばれる区画で、南北に堀跡が残っています。
           北側の堀は二重になっていて、その間の細尾根は、倉田家の墓所となっています。
          また、2本のうち少なくとも南側の堀は、おそらく自然の沢を利用したものでしょう。
           北城南辺の堀は、『南箕輪の史跡』によれば「道清濠」と呼ばれていて冷泉が湧いて
          いたそうです。その南側は、道清濠からT字に切れ込んだ浅い堀によって東西に区画
          されています。東側が本城、西側が西城と呼ばれていて、ここが倉田城の主郭部とみら
          れます。現状は住宅地ですが、上の地図に緑点で示した箇所に城址標柱が建てられ
          ています。本城の南側にも堀が残っていますが、それより南方については、遺構らしき
          ものは見当たりませんでした。
           全体像がややはっきりしない城跡ですが、おそらく本城・西城を中心に、北城を含め
          三方を囲う外郭が設けられていたのでしょう。また、北篠丹後守については、北殿駅と
          倉田本城のちょうど中間付近に墓があり、倉田城とは別の城館であった可能性も考え
          られます。

           
 本城の城址標柱。
本城と西城を分ける堀跡。 
 本城南側の堀跡。
本城と北城の間の「道清濠」。 
 北城のようす。
北城北側の堀跡。 
 北城北側の二重堀に挟まれた細尾根。


BACK