宮島氏館(みやじまし)
 別称  : 宮島氏宅
 分類  : 平城
 築城者: 宮島氏
 遺構  : なし
 交通  : JR飯田線伊那北駅からバスに乗り、
      「上伊那農業高校」下車徒歩10分


       <沿革>
           この地の里長と御射山神社の神職を兼ねた有力者宮島氏の居館とされる。『長野県
          町村誌』によれば、文禄元年(1592)に宮島式部の一族が近郷の士人に襲われ、僅か
          数人とともに他国へ逃れ、後に式部の姉婿であった棚木四郎の旧臣のもとへ寄食し、
          承応年間(1652~55)に沢尻へ戻って久保村の枝村を興したとされる。
           棚木四郎は久保村の棚木城主だった人物で、武田晴信(信玄)が上伊那へ侵攻した
          天文年間(1532~55)に、敗れて没落したとされる。


       <手記>
           上に図示した道沿いに、館跡の標柱が建っています。遺構らしきものはとくに見当たり
          ません。
           現地の状況についてはこれだけなのですが、宮島氏については上述の来歴を見返す
          だけでも、かなり謎の多い一族といえます。まず第一に、宮島式部が棚木四郎の義弟と
          すると、文禄元年時点でかなりの高齢と推定され、少なくとも承応年間に存命ということ
          はありえないでしょう。とするなら、沢尻に戻ったのは式部の孫か曽孫くらいの代になる
          と思われます。
           第二に、宮島氏館とされているものは、式部がもともと居住していた屋敷なのか、また
          は出戻ってから新たに構えられたものなのかが分かりません。館跡の周囲には、「拝殿」
          「神殿」「長者の井」「的射場」といった字名が残っているということで、古くからあったよう
          には見えますが、谷戸底の川沿いという立地は、とても有力者の屋敷にふさわしいとは
          思えません。どちらかというと、出戻ってから人目を忍んで枝村を興した後の居宅という
          方が合っているような気がします。
           第三に、沢尻村は明治時代まで久保村の枝村だったということですが、両者は約5km
          も離れています。単に一族を匿うだけなら、久保村に帰農したとみられる棚木氏旧臣が
          付近に適当な土地を見繕えばよいところ、わざわざ遠く離れた隘地に枝村を興している
          のは、沢尻が宮島氏の故地であったと見るべきように感じます。
           以上を総合すると、宮島氏は沢尻付近に住していたが、それは付近の台地上のどこか
          であった。文禄に居所を追われた宮島式部は一族数名とともに流浪したが、その途中で
          死去し、孫か曽孫の代に棚木旧臣の働きかけもあって沢尻に戻ったが、近郷の目もあり
          谷戸底に新しく居宅を構え、久保村の枝村に甘んじて再興に務めた、ということなのかな
          と、個人的に推察しています。

           
 宮島氏館跡標柱。
周辺現況。 


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