稲村御所(いなむら)
 別称  : 稲村館、御所館
 分類  : 平山城
 築城者: 足利満貞
 遺構  : 土塁、堀
 交通  : JR東北本線須賀川駅からバスに乗り、
      「稲村」下車徒歩15分


       <沿革>
           応永六年(1399)、鎌倉公方足利満兼は奥羽統治のため、弟の満直と満貞を下向
          させた。満直は篠川に、満貞は稲村に居館を築き、それぞれ篠川御所・稲村御所と
          尊称された。ただし、現地の赤城神社には明徳三年(1392)の板碑があることから、
          それ以前から二階堂氏の城館が存在していた可能性も考えられる。
           鎌倉府による奥州統治は一進一退であまり進展せず、相対的に両御所の影響力
          は減衰していった。また、満兼の跡を継いで鎌倉公方となった足利持氏は将軍足利
          義教と対立したが、満貞と満直もそれぞれ親持氏・親幕府に分かれたため奥州での
          立場をさらに弱めることになった。
           応永三十一年(1424)、満貞は持氏のいる鎌倉へ戻り、一般にはこれを以て稲村
          御所は廃絶したとされる。ただし、稲村の城館も廃されたのかどうかは不明である。
          満貞は永享十年(1438)の永享の乱に際し、持氏と命運を共にして鎌倉の永安寺で
          自害した。


       <手記>
           赤城寺背後の緩やかな独立丘が稲村御所です。館の範囲は南側3分の2ほどで、
          かつては敷地全体が畑地だったと思われますが、現状では南側半分は耕作が放棄
          されています。
           北辺の土塁が最も良好に残っていて、その向こうには空堀もあるようなのですが、
          稼働している畑の手前には柵が張られていて、残念ながら近づくことはできません。
          西辺や南辺は、わずかな土塁の痕跡にとどまっています。
           南麓には、丘を囲むように細く低い水田が巡っていて、おそらく堀跡と思われます。
          さらにその南側は字を徳玄といい、ここにも方形の館跡があったそうですが、道路や
          耕地に造成されて失われたようです。
           全体的に、特徴的な丘ではあるものの、要害性に優れているとまではいえません。
          館内も基本的に単郭で、あまりここに籠って戦おうという感じには見えません。御所
          の北には稲村城があり、有事の際にはこちらを詰城としていたものと思われます。

           
 南麓の細く低まった水田。
 堀跡か。
城内のようす。 
 北西隅付近の土塁を望む。
同じく北辺の土塁を望む。 
 字徳玄の方形館跡付近の現況。


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