篠川城(ささがわ)
 別称  : 篠川御所
 分類  : 平城
 築城者: 足利満直か
 遺構  : 土塁、堀
 交通  : JR東北本線安積永盛駅徒歩10分


       <沿革>
           応永六年(1399)、鎌倉公方足利満兼は奥羽統治のため、弟の満直と満貞を下向
          させた。満直は篠川に、満貞は稲村に居館を築き、それぞれ篠川御所・稲村御所と
          尊称された。篠川・稲村ともに両名下向以前から城館があったともいわれるが、確証
          はない。
           満兼の子持氏が将軍家と対立すると、満貞は持氏を支持して鎌倉へ退去したが、
          満直は幕府に属して篠川に留まった。幕府は、満貞に持氏討伐の任を期待したが、
          奥州諸将に対する影響力は限定的であったため表立った軍事行動はできず、むしろ
          立場を弱める結果となった。
           永享十年(1438)の永享の乱により、持氏および満貞は鎌倉で自害した。同十二年
          (1440)に下総結城氏が持氏の遺児を擁して結城合戦を引き起こすと、これに応じた
          南奥諸将が篠川御所を襲い、満直もまた自害して果てた。篠川城には、二階堂家臣
          須田氏が入ったとされる。
           天正八年(1580)、二階堂盛義は蘆名氏や石川氏と連合し、田村氏の持ち城である
          篠川城対岸の御代田館を攻撃した。しかし、城は容易に落ちず、盛義が戦線を離脱
          して湯治に向かうなど膠着状態となった。翌九年(1581)、連合軍に佐竹義重が参加
          し、改めて御代田館を包囲したが、やはり2か月経っても陥落しなかった。これを見た
          伊達輝宗らが仲介に入り、二階堂氏が田村氏に奪われていた今泉城などを取り戻す
          条件で和議が成立した。
           当時の篠川城主は須田佐渡守頼隆とされ、伊達政宗が蘆名・佐竹・相馬の3氏を
          退けた天正十六年(1588)の郡山合戦に際し、頼隆は伊達氏に寝返った。その後の
          篠川城については詳らかでない。


       <手記>
           篠川城は阿武隈川の西岸に築かれた崖端の城で、主郭土塁上に東舘稲荷神社が
          鎮座しています。川に面した東辺を除く主郭の三方に堀跡が見られ、その南側にも、
          土塁を擁する区画が認められます。主郭西側にも曲輪が展開していたとみられます
          が、こちらは江戸時代に奥州街道の笹川宿として開発されたため、旧状は不明です。
          したがって、現状の遺構としてはっきり視認できるのは主郭とその南の曲輪ということ
          になり、正しいかは分かりませんが、ここでは南の曲輪を二の郭を呼ぶことにします。
           川沿いには歩行者および自転車用の舗装路が伸びていて、これが新幹線の高架と
          交わるあたりに、緩くカーブした二の郭南端の堀跡が見られます。この堀は、おそらく
          かつては河川だったものと思われ、城の南限を成していたものと推測されます。
           ちなみに、車で訪れる場合は、県道355号線が新幹線と交わるポイントで高架下へ
          右折すると、その先に駐車スペースがあります。そのまま高架下を歩けば、先の堀跡
          のある自転車道との交点に辿り着くでしょう。

           
 東舘稲荷神社が鎮座する主郭土塁。
主郭西辺の堀跡。 
 主郭北辺の土塁。
主郭北辺の堀跡。 
 主郭の土塁。
主郭と二の郭の間の堀跡。 
 二の郭の土塁とみられる地形。
主郭付近から阿武隈川と郡山市街を望む。 
 二の郭南端の堀。河川跡か。


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