院庄館(いんのしょう) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 鎌倉幕府か | |
遺構 : 土塁、堀 | |
交通 : JR姫新線院庄駅徒歩20分 | |
<沿革> 『院庄作楽香』に、文治(1185〜90)の後、「総社に在し国府自ら廃り 鎌倉覇府の派遣せし 守護職は大率(おおむね)此地に居りて州府と称せり」とあり、鎌倉時代初期に美作の守護館 として築かれたと考えられているが、確証はない。 元弘二年(1332)、討幕に失敗して捕えられた後醍醐天皇が隠岐へ流される途中、院庄で 追いついた備前の武士・児島高徳が館の庭に潜入した。しかし、天皇奪還は無理と判断した 高徳は、桜の樹に「天莫空勾践 時非無范蠡」と十字の詩を刻んで去ったとする、『太平記』の 白桜十字詩の伝説が残る。しかし、討幕成就後の論功行賞に高徳の名はみられず、南朝の 忠臣・児島高徳は架空の偶像とする説も根強い。 鎌倉幕府滅亡後の院庄館については不明である。 <手記> 院庄館跡は国の史跡に指定されており、上述の伝説にちなんで後醍醐天皇とその高徳を 主祭神とする作楽神社が鎮座しています。境内は南辺を除く三方を堀と土塁が巡っています が、いずれも浅く低く、上の地図にはっきり示されているほどの規模ではありません。 南辺は吉井川の旧流路が緩やかにカーブしていますが、現地説明板には「方八十間」とも 記されているとおり、当時は方形の館であった可能性が高いと思われます。二度にわたって 発掘調査が行われ、およそ鎌倉時代ごろと推定される遺物が検出されていることから、高徳 の逸話の真偽は不明ながら、鎌倉幕府の滅亡によって廃されたものと推察されます。南へ 約400mのところには、代わって築かれたとみられる院庄(構)城があります。 |
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作楽神社。 | |
西辺の土塁。 | |
北辺の土塁。 | |
東辺の土塁と堀跡。 | |
南辺の堀跡。 | |
南東隅の土塁。 | |
境内の井戸跡説明板。 |