院庄構城(いんのしょうかまえ) | |
別称 : 院庄城、院庄構、構城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 赤松氏か | |
遺構 : なし | |
交通 : JR姫新線院庄駅徒歩20分 | |
<沿革> 『日本城郭大系』では、美作守護赤松氏の代官として江見八郎兵衛が拠ったものかとしている。 『作陽誌』によれば、天正年間(1573〜92)に片山木工允・左馬助が在城していたとされる。 慶長八年(1603)、信濃川中島藩主13万7500石の大名・森忠政は、美作一国18万6500石へ 加増・転封となった。美作に入国した忠政は、はじめ院庄古城を居城とすべく改修に着手したが、 森家重臣・井戸宇右衛門がこれに強く反対した。忠政は寵臣・名古屋山三郎に宇右衛門誅殺を 命じ、山三郎は城の建設現場で口論となった宇右衛門に襲い掛かったものの、剛腕で知られる 宇右衛門に返り討ちにされ、宇右衛門は他の森家臣らに殺害された。 宇右衛門の弟にも刺客が差し向けられ井戸家は断絶したが、事件の余波は大きく、筆頭家老 の林為忠が出奔している。事態を重く見た忠政は、居城の建設地を院庄から鶴山(津山城)へ 変更した。普請の間、忠政は院庄に仮寓して工事の指揮に当たったとされる。 寛永十五年(1638)、院庄の城跡は森家の命により破壊され、大部分が農地とされた。 <手記> 上に示したポイントに構城跡の石碑があり、南側の道路沿いに入口の案内標識があります。 城跡は江戸時代初期の農地化に加え、JR姫新線建設に伴う土取りでさらに破壊され、石碑の 建つ本丸の一角が微高地として残るのみだそうです。 個人的には、津山城ほどの巨大な総石垣の城を築いた忠政が、当初はこの地に築城しようと していたというのは眉唾なように思います。森家の命で壊されたとはいえ、近世城郭が築かれん とした形跡も遺物も見られないというのは、やはり不自然ではないでしょうか。地形的にも、美作 一国を治める18万石の居城に相応しいようには感じられません。実際には、初めから候補地は 津山であって、院庄城跡を仮の居所としている間にここで宇右衛門を殺害したが、忠政に正統な 理由がなかったため、院庄築城を巡って対立云々という話が付け加えられたのではないか、と いうのが直感です。 |
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構城跡入り口の標識。 | |
構城址の石碑。 | |
石碑周辺のようす。周囲より高まって いるのが本丸跡のよすがだそうです。 |
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同上。 | |
本丸跡から姫新線を見送る。 |