津山城(つやま)
 別称  : 鶴山城
 分類  : 平山城
 築城者: 山名忠政
 遺構  : 石塁、堀
 交通  : JR姫新線津山駅徒歩15分


       <沿革>
           嘉吉年間(1441〜44)に、美作守護・山名教清の一族とみられる山名忠政が、鶴山に砦を築いた
          のがはじまりとされる。ただし、山名氏の鶴山城について詳細は不明である。
           慶長八年(1603)、信濃国川中島藩主13万7500石の大名・森忠政は、美作一国18万6500石へ
          加増・転封となった。美作に入国した忠政は院庄古城の改修を命じたが、森家重臣・井戸宇右衛門
          がこれに強く反対し、忠政の不興を買った。忠政は宇右衛門の誅殺を寵臣・名古屋山三郎に命じ、
          山三郎は城の建設現場で口論となった宇右衛門に襲い掛かったものの、逆に剛腕の宇右衛門に
          斬り伏せられ、宇右衛門は他の森家臣に殺害された。
           宇右衛門の弟らにも刺客が差し向けられ井戸家は断絶したが、事件の余波は大きく、筆頭家老の
          林為忠が出奔している。事態を重く見た忠政は、居城の建設地を院庄から鶴山へ変更した。普請の
          間、忠政は院庄に仮寓して工事の指揮に当たったとされる。鶴山は津山と改名され、城は13年もの
          歳月をかけて元和二年(1616)に完成した。
           津山城には4重5階地下1階のいわゆる南蛮造と呼ばれる破風のない層塔型天守が上げられて
          いた。築城の際、南蛮造の嚆矢として名高い小倉城の天守を参考にしようと家臣を密かに派遣し、
          調査中に細川家臣に見つかってしまったものの、それを聞いた小倉藩主細川忠興は笑って城内を
          案内し、図面まで持たせたとする言い伝えがある。
           森家は、元禄十年(1697)に末期養子として迎えられた5代衆利が将軍拝謁のため江戸へ向かう
          途上、発狂したとして改易された。翌十一年(1698)、越前松平家流の白河藩主松平直矩の三男・
          宣富が10万石で津山藩主となった。しかし、宣富の子・浅五郎が享保十一年(1726)に夭折すると、
          宣富の弟・長熙による家督継承が認められたものの、所領は5万石に半減された。このとき家格も
          下げられたため、石高と格式の回復が藩の悲願となったが、文化十四年(1817)に将軍・徳川家斉
          の十五男・斉民を8代藩主に迎えたことで元の10万石に加増された。
           斉民の跡は7代斉孝の実子である慶倫が継ぎ、明治維新を迎えた。


       <手記>
           津山城は日本三大平山城の1つに数えられているそうですが、たしかにひと山まるごと累々たる
          石垣で固められている様は、数ある近世城郭のなかでも抜きんでた威容といえるでしょう。その上
          には姫路城や広島城を上回る77基もの櫓があったそうで、現在の法律では木造5階天守は難しい
          としても、これらの低層櫓や塀をできるだけ復元すれば、かなりの観光資源になるように思います。
           一方で、築城時に50万石オーバーだった姫路や広島に比べて津山は18万石ですから、当初から
          維持はかなり大変だったろうと推察されます。この点、森忠政やその兄・長可には上記のほかにも
          横暴な逸話が少なくなく、私の中では上司にしたくない戦国武将のトップ集団に入っています笑
           一方で、近世城郭なので経験していないわけですが、実戦にはそこまで強くないのではないかと、
          個人的に考えています。というのも、訪れてみて感じたことには、鶴山の東を流れる宮川は人工的
          に付け替えられたのではないかというくらい谷が狭く、その東側には丹後山がせり出しています。
          つまりこの丹後山を押さえられると、津山城は簡単に包囲されてしまい、大砲でもあろうものならば
          本丸へ打ち込み放題となってしまうのです。したがって、鶴山城を雅称とする津山城は、実戦よりも
          権威の象徴として魅せる城に振り切った近世城郭であると評するのが妥当と考えられます。
           ちなみに私が訪れたのは2024年1月で、その半年後の7月には大雨で長柄櫓跡脇の石垣が崩落
          してしまいました。その影響でしばらく鶴山公園自体も休園となったようで、たいへん残念であると
          同時に、その前に訪城できたのは幸運でした。そのときも冷たい雨が一日中降り続いていましたが、
          城内にあった投句箱に以下の2句を詠み入れたのは、今となっては予見的でもあります。
           石垣とともに震える氷雨空
           白肌の櫓にひとり鶴の山
          尤も、箸にも棒にも引っかかりませんでしたが。入選した句を見ても、せっかく旅の一句を詠まれる
          のなら、津山市の投句函は個人的におすすめできません。


 南東から津山城跡を見上げる。
東向かいの丹後山から本丸を望む。 
 三の丸の石垣。
城址標柱と矢穴の残る「忘れ去られた石」。 
 森忠政像。
冠木門跡。 
 冠木門内から備中櫓方面を望む。
表中門付近の石垣群。 
 復元備中櫓を下から。
同上。 
 切手御門跡。
表鉄御門跡前のようす。 
 鼓櫓下の門跡。
本丸東辺の犬走り状の曲輪。 
 粟積櫓前の出枡形。
粟積櫓石垣。 
 本丸東辺の石垣。
天守曲輪石垣。 
 天守台。
ハート形の石材(だそうです)。 
 天守台から備中櫓を見下ろす。
備中櫓。 
 裏鉄御門跡。
五十阪から本丸の石垣群を見上げる。 
 裏中御門跡。
御厩堀。 
 二の丸から天守曲輪石垣を見上げる。
同上。 
 二の丸柄櫓跡付近の石垣を見上げる。
 この右手の石垣が崩れたそうです。


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