犬居城(いぬい) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 天野氏 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口 | |
交通 : 遠州鉄道・天竜浜名湖線西鹿島駅よりバス 秋葉橋バス停下車徒歩30分 |
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<沿革> 遠州国人天野氏の居城である。天野氏は伊豆工藤氏の一族で、藤原景光の子 遠景を祖とする。遠景の子政景は、承久の乱の戦功により、遠江国山香荘などの 地頭職を得た。政景の一子景経の孫経顕が、鎌倉時代末期に山香荘に下向し、 遠江天野氏の祖となった。 経顕は元弘三年(1333)の鎌倉幕府滅亡に際して、一族郎党を率いて新田義貞 の幕下に参じた。続く南北朝時代には、経顕は北朝方として活躍したが、一族の なかには南朝に属した者も少なくなく、同族相争うこととなった。犬居城はこうした 南北朝の抗争のさなかに築かれたものと推測されているが、詳しい築城の経緯は 明らかでない。 遠江天野氏は代々今川氏に属していたが、桶狭間の戦い後の永禄六年(1563) に、犬居城主天野景泰・元景父子は今川家から離反したことから所領を逐われ、 景泰の従弟にあたる藤秀が天野宗家を継いだ。藤秀の子景貫は、一度は徳川氏 に従属したものの、元亀二年(1571)までに武田氏に寝返り、徳川方の長篠城を 攻撃している。 元亀四年(1573)に武田信玄が病没すると、犬居城は反撃に転じた徳川家康の 攻勢に晒されるようになった。天正二年(1574)に一度は撃退するものの、同四年 (1576)に再び攻められると耐えきれなくなり、景貫ら天野氏一族は城を退去して 甲斐に落ち延びた。 これをもって犬居城は廃城となったとされるが、詳細は不明である。 <手記> 犬居城は気田川沿いの比高140mほどの山上にあり、栃川を挟んだ北西には、 秋葉神社の鎮座する秋葉山がそびえています。犬居旧市街の小澤医院から北に 入って坂道を登り、熱田神社の脇から国道を渡った先に、犬居城登山口の標識と 若干の駐車スペースがあります。ここから主城域までは重機道が通じているので、 さして苦も無くたどり着くことができます。 犬居城の曲輪配置については、私が参考とした『静岡の山城 ベスト50を歩く』と 現地の説明板で異なっていて、後者が頂部の物見曲輪の下に本曲輪、その下に 二曲輪、そして馬出状の東曲輪となっているのに対し、前者は物見曲輪・二曲輪・ 本曲輪の順となっていて、また東曲輪を三曲輪、さらにその下の出曲輪を東曲輪 としています。これは、現地でいう本曲輪が東半で幅広の土塁状となって二曲輪 を囲っているという形状からくる相違と思われます。 『静岡の山城』で東曲輪としている出曲輪と主郭側との間には堀切が穿たれて いて、ここを大手口としています。そこから三曲輪に登る通路は、曲輪の張り出し 土塁と竪堀に挟まれていて、竪堀の向こうにある腰曲輪から側撃できるよう工夫 が成されています。 また、三曲輪から二曲輪ないし本曲輪に入る虎口も、蔀のようになっていて、 容易に進入できないようになっています。これらの工夫は総じて東側に集中して いることから、個人的には最終的な改修者は天野氏を駆逐した後の徳川氏では ないかと考えています。 頂上の物見曲輪には、櫓風の展望台が建てられていて、山里の美しい景色が 望めます。物見曲輪の西には、ごく小規模な腰曲輪と最後尾の堀切があるのみ で、前述の東側の造作に比べればきわめてお粗末といえます。 |
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犬居城址遠望。 | |
堀切越しに出曲輪(東曲輪)を望む。 | |
堀切を堀底から。 | |
東曲輪(これより以下現地説明板に則ります)方面を見上げる。 | |
竪堀越しに腰曲輪を望む。 東曲輪は左後方方向にあり、そちらへ向かうと側射されます。 |
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二曲輪虎口。 | |
虎口先の蔀状の地形。 | |
本曲輪の土塁。 | |
土塁状になっている本曲輪東半のようす。 | |
本曲輪から二曲輪を見下ろす。 | |
本曲輪から物見曲輪を望む。 | |
物見曲輪の展望台。 | |
展望台からの眺望。 | |
西端の堀切。 |