長篠城(ながしの)
 別称  : 末広城、竹井城
 分類  : 平城
 築城者: 菅沼元成
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : JR飯田線長篠城駅徒歩10分


       <沿革>
           永正五年(1508)、菅沼元成によって築かれたとされる。元成の父満成は、宗家である
          田峯菅沼氏の菅沼定成の弟で、長篠菅沼氏の初代とされる。同族の野田菅沼氏の菅沼
          定則が同じ年に野田城の築城を開始しており、また両者はそのころ駿河の今川氏親に
          帰属していることから、長篠・野田両城は今川氏の意向によって築かれたものと推測され
          ている。
           桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、長篠城主菅沼貞景は三河国で自立した
          徳川家康に転じた。元亀二年(1571)、宗家田峯菅沼氏が武田信玄に寝返ると、長篠城
          は同じく武田方の天野景貫に攻められた。撃退には成功したものの、これ以上の抵抗は
          困難とみた貞景の子正貞は、宗家の説得を容れて武田氏に降った。
           元亀四年(1573)、西上作戦で野田城を包囲していた武田信玄が病を得て帰国の途に
          つくと、家康は反撃に転じて長篠城を攻撃した。正貞はしばらく抗戦したが、城を開いて
          降伏し、武田領へ撤退した。しかし、正貞は武田家中で内通を疑われ、小諸城に幽閉
          された。同年、武田方に転じていた奥三河の有力国人奥平定能(貞能)が徳川家に帰参
          し、その嫡男貞昌は長篠城主に任じられた。家康の命を受けた貞昌によって、長篠城の
          大幅な改修が行われたことが、書状などからうかがえる。
           天正三年(1575)五月、武田勝頼が1万5千の大軍を率い、長篠城を攻囲した。対する
          奥平勢はわずか500人であったが、鉄砲を200丁擁するなど籠城の備えをしていたため、
          武田軍の猛攻をしのいでいた。しかし、兵糧庫に引火したことから、落城寸前の状態に
          追い込まれた。五月十四日の夜半、貞昌は家臣鳥居強右衛門勝商を密使として放ち、
          強右衛門は川伝てに城を脱出し、翌十五日に岡崎城へ到着した。岡崎にはすでに織田
          の援軍が来ていたため、強右衛門は城へ後詰を知らせるべく出発した。しかし、翌十六
          日の早朝に武田の兵に捕縛された。武田方は城兵に救援は来ないと降伏を勧告すれば
          命は助けると持ちかけ、強右衛門もこれを受諾した。しかし、城の眼前に引き立てられ、
          裸で磔にされた強右衛門は2、3日中に援軍が来ると叫び、その場で突き殺された。
           五月二十一日、設楽原でいわゆる長篠の戦いの本戦が行われ、武田勢力は壊滅的な
          敗北を喫した。城を守り徹した貞昌は殊勲として信長から一字を拝領し、信昌を名乗った。
          戦後、信昌は新城城を築いて移り、長篠城は廃城となった。


       <手記>
           戦国時代の城館のなかで、もっとも有名なものの1つといえる長篠城。豊川と宇連川の
          合流点に位置し、「山家三方」と呼ばれた奥三河の山間部から、豊川沿いのやや開けた
          河岸段丘地帯へと出る喉口部を押さえる要衝の城です。
           現在、本丸の東辺付近をJR飯田線の線路が貫通していますが、その他の三辺および
          本丸内については良好に残っています。とくに北辺の堀と土塁は大きな見どころです。
          本丸の北辺から東辺にかけては、豊川の支脈が堀の代わりを成しているうえに、小さな
          滝まであります。当時の山間部にあっては珍しくもなかったのかもしれませんが、城中に
          滝があるというのは、ちょっと面白いように感じました。しかも、今でもしっかり飛沫と音を
          立てて勢いよく水が流れています。
           本丸の外にも、かつては堀と土塁を備えた曲輪が続いていたようですが、現在はほぼ
          開発によって消滅しています。本丸虎口の外には資料館と駐車場が整備されています。
          飲食店や物産館などもいくつかあり、建物が何も残っていない城跡でこれほど観光地化
          が進んでいるのは、日本広しといえど早々ないのではないでしょうか。
           Wikiによると、作家の伊東潤氏が長篠城について、「それほど堅牢な城とは思えず、
           (中略) 武田軍はこの城を囮として、後詰めに来る信長・家康をおびき出して決戦する
          つもりだったのではないか」と考察されているそうです。ただ、厳島の戦いのように城を
          持っている方がおびき出すというならともかく、勝頼がたとえ長篠周辺での決戦を望んで
          いたとしても、長篠城をさっさと落としてしまわない理由にはなりません。
           また、父信玄が落とせなかった高天神城の攻略にこだわる勝頼の性格を考えれば、
          豊川流域で決戦に臨むとしても、落とせるならさっさと父の西上作戦の限界線であった
          野田城までは落としておきたいと思うのが自然ではないでしょうか。
           そもそも伊東氏の説は長篠城が守るに弱い城であることが大前提です。ですが、二辺
          を断崖の渓流に挟まれ、兵の駐留に十分なスペースがあり、なにより先の滝にみられる
          ように水の確保が容易であるという点を鑑みれば、十分要害の堅城と呼ぶに値するもの
          と考えられます。

           
 長篠城址南側の橋から。
本丸跡。 
 同上。
本丸北辺の堀と土塁。 
 同上。
本丸脇に見える滝。 
 飯田線の線路越しに宇連川側の腰曲輪を望む。
駐車場外側に立つ二の丸標柱。 


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