犬甘城(いぬかい)
 別称  : 犬飼城、蟻ヶ崎城
 分類  : 山城
 築城者: 犬甘氏か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : JR篠ノ井線北松本駅徒歩20分


       <沿革>
           小笠原氏重臣犬甘氏の居城とされる。犬甘氏の出自についてはいくつか説があり、
          確定をみていない。安曇郡内には同じ読みの犬飼の地名や姓が散見され、古くから
          この地に根差していた一族であるという点では一致している。さらに、古代大和朝廷
          の品部の1つに犬養部があり、国衙郡衙の穀倉の守衛を司っていたとされている。
          『日本書紀』には、犬養部出身の姓の1つとして阿曇(安曇)犬養連があり、犬甘氏は
          信濃国衙ないし安曇郡衙を守備する中央官人の末裔とする説が、比較的有力とみら
          れる。このように、犬甘氏は相当古くから犬甘城周辺を領していたものと思われるが、
          城がいつごろ誰によって築かれたのかは不明である。
           『日本城郭大系』には、犬甘城について「南北朝時代の放光寺合戦の戦場と比定
          されている」とある。放光寺合戦について詳細は明らかでないが、建武元年(1334)
          に信濃守護小笠原貞宗が井川城を築いて居城としてからは、犬甘城北東に営まれ
          ている放光寺は守護代の居所となっていた。井川築城以前は、放光寺が守護所で
          あったともいわれる。また、同二年(1335)の中先代の乱に際して、諏訪頼重らが
          松本平の「信濃国衙」を焼き討ちにしている。さらに、正平六/観応二年(1351)には
          頼重の曾孫諏訪直頼が放光寺を攻めたとされる。すぐ脇の放光寺が戦火に遭って
          いながら城の記述がみられないことから、このころにはまだ犬甘城は築かれていな
          かったとも思われるが、こうした信濃の不安定な状況において築城の必要に至った
          可能性は十分にある。
           天文十九年(1550)、武田晴信が松本平へ侵攻すると、小笠原氏方の城は、居城
          林城をはじめほとんどが自落した。信濃守護小笠原長時は村上氏を頼って落ち延び
          たが、犬甘城の犬甘政徳、平瀬城の平瀬義兼、そして小笠原氏庶流の二木重高の
          3氏だけは、その後も武田氏に抵抗した。しかし、まもなく犬甘城は武田方によって
          攻め落とされ、政徳は平瀬城に移った。『二木家記』によれば、このとき村上義清が
          犬甘城へ援軍を送るという風説が立った。武田家臣で深志城代の馬場信春は、噂
          を受けて犬甘城方面へ手勢を連れて物見に出た。これを援軍と勘違いした政徳は、
          迎え出て信春に挨拶したところで囲まれてしまい、なんとか振り切ったものの城へは
          戻れなくなり、重高の館へ逃げ込んだ。主を失った犬甘城は、そのまま攻め落とされ
          てしまったとする顛末が書かれている。
           その後の犬甘城については史料にみられず、廃城となったものと推測される。


       <手記>
           犬甘城は、大王わさび農場で知られる明科付近から、犀川に沿って累々と壁のよう
          に続く山稜の最南端に位置しています。城山一帯は城山公園となっていますが、この
          公園は天保十四年(1843)に松本藩主戸田松平光庸が庶民に開放したことに始まる
          歴史あるものです。眼下には松本城が望め、藩主の居城を見下ろせる山を開放する
          というのも、実に珍しいことのように思います。
           それだけ古くから公園化されていたわりには、遺構は比較的よく残っているように
          感じました。『大系』には、3つの曲輪から成るとありますが、堀切で分割されている
          エリアだけでも4つあります。このうち、南端の2つの曲輪は、間を分断する堀底道を
          埋めれば元は1つの曲輪であったようにも見えます。とはいえ、最南端の曲輪跡には
          展望台が、そのひとつ手前の曲輪跡には神社があるため、ここは公園内でももっとも
          改変されている箇所といえ、早合点は禁物です。
           犬甘城でもうひとつ気になるのは、主郭がどれかという点です。縦に整然と並んで
          堀切で各個分断された3つないし4つの曲輪はどれも独立性がそこそこあり、どれが
          主郭であると断言できるほどの決め手がありません。普通に考えれば、先端ないし
          後端の曲輪ということになるでしょう。先端の曲輪についてはもっとも眺望に優れて
          おり、先の推論のように南端の2つの曲輪が元はつながっていたとすると、城内で
          最大の曲輪となります。後端の曲輪については、城内最高所であり、また他の曲輪
          と違って明確に2段になっているという特徴があります。直感的には、後端の曲輪の
          方が主郭のような気がするのですが、これまた断言はできません。
           この城の最大の弱点は、西側の急崖に比べて東側があまりになだらかだという点
          にあります。いかに曲輪間を深い堀で切っていても、東側からまんべんなく攻められ
          てしまったら、どの曲輪も順次落とされるのを待つのみです。この東側斜面にこそ、
          あの手この手の防御設備を施さなければならないハズなのに、とくに何かがあった
          形跡はみられません。一応、真ん中の曲輪下に堀を利用したかのようにみえる花壇
          があります。ただ、堀を設けるなら北端から南端まで堀り切らなければ意味がない
          だろうところ、そうはなっていないのでこれも何ともいえません。とりあえず、武田氏
          が攻め落とした後は、そのまま放っておかれたのだろうなとは察せられます。
           このように、パッと見て城と分かるぐらいには十分に遺構が残っているのですが、
          お世辞にも規模が大きいとはいえません。サクサクっと見学した後は、展望台へと
          上って、斜め上から望む松本城や、アルプスの山々の景色を楽しみましょう。

           
 最後尾の堀、というか谷。
北端の曲輪。 
 北端の曲輪下段。
北端の曲輪南の堀切。 
 堀切越しに北端の曲輪を望む。
北から2番目の曲輪。 
 2番目の曲輪下の花壇。
 堀跡か。
2番目の曲輪南の堀切。 
 3番目の曲輪に鎮座する城山稲荷神社。
3番目の曲輪のようす。 
奥にみえるのは南端の曲輪の展望台。 
 南端の堀切。
 公園化にともなって掘られたものか。
南端の曲輪。 
 おまけ@:北アルプス方面の眺望。
おまけA:木曽方面の眺望。 
右側奥の白い山は御嶽山。 


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